200212.6更新
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太一郎さんと奥様のヒデ子さん。「写真を撮るなら家内も一緒に」との太一郎さんの言葉で2人そろっての撮影になった。小田原の銀座通りに面した7坪ほどの店には様々な傘がならぶ。「私が話し好きなもので…」何も買わずに話だけしに来る人もよくいるそうだ。
創業100年の洋傘店3代め街の生き字引 ?!
小嶌(こじま)太一郎さん

「オリジナルの傘、今でも作ろうと思えば作れるよ。でも材料がそろうかね」
現在79才の小嶌さん。小田原で生まれ育ち小田原で商売をして生きてきた。関東大震災の時は赤ちゃんだったので全く記憶にないが、大平洋戦争はよく覚えている。防空監視哨―敵国機の飛来を監視するための見張り―として一晩中空を見ていた。終戦間際の小田原空襲の時は「日本刀を持って(監視隊の)本部へかけつけました。もう終わりだと思った」と、今でもしっかり記憶している。
家業は洋傘の製造販売。洋傘ひとすじで今年創業100周年。地味な業界だ、明治から続く専門店はめずらしい。15才ぐらいから仕事をしていたので「100年のうち65年は私がやってます」と目を細める。
地元でずっと商売をしているだけに、地域とのつながりはあたりまえに深い。小田原青年団連盟初代理事長、小田原検察審査会会長、子ども会副会長…役歴はあげたらきりがない。商人、住民、団体のリーダーと様々な立場で街の移り変わりを受け止めてきた。
現在奥様と2人で生活し、生活できるくらいに傘を売っているそうだ。今は販売のみだけど、傘布を縫うドイツ製ミシンを「70〜80年前のものだけど今でも使えるよ」と見せてくれた。几帳面に手入れがされている。
それぞれに独立した3人のお子さんに孫が6人。「動けるうちはいいけど、いつあれしてもおかしくないよ」と言いながら、「ニュージーランドへ留学している孫が帰ってくるまでは元気でいたい」「社会人になったばかりの孫が結婚して一人前になるまでは元気でいないとな」…目を輝かせる。お孫さんの成長が楽しみ。まだ引退は先のようだ。

2002.11.22掲載



ミュージッククリエーター
杉山 たかしさん

「親の理解でここまでこれました 少しでもいい仕事をして還元したい」
クラシックの好きなお母さん、歌謡曲の好きなお父さん、レコードを持って遊びに来る年上のいとこたち…子どもの頃から音楽は身近にあった。10才でクラシックギターを習いはじめ、中学でフォークをはじめて軽音楽部をつくって部長に。高校時代はその音楽熱に拍車がかかり、グループ活動ソロ活動、コンクール応募。そして、音響芸術の専門学校へと進学し、在学中にはソロCDシングルをリリースしてインディーズデビューも果たした。精力的に音楽活動を展開するその情熱は、10年以上たった今も変わらない。
杉山たかしさんは、シンガー・プレイヤーとしてライブやレコーディングに参加する音楽クリエーター。でも、それだけではない。作曲や編曲を手がけたり「食べていくために」地方FM局のパーソナリティや音楽教室のインストラクターなど、音楽に関する様々な仕事をしている。
様々なかたちでコツコツと音楽にかかわってきて見えてきたものがある「今のメジャーな音楽に満足していません。自分の中でやりたい事がいっぱいあります。夢を追いつづけますよ」
生まれも育ちも小田原。夢の一つとして『小田原発の音楽』を完成させたいと考えている。「若者に人気のあるKiroroや安室奈美恵さんは沖縄を背負って中央で活躍しています。例えば松山千春さんの歌には北海道の情景があります。そんな音楽を小田原にも作りたいんです」
あせって失敗する事もあるけれど、壁にぶつかった時は自分のペースでゆっくり乗り越えるそうだ。杉山さんの活躍、小田原発の音楽、地元としても楽しみだ。
http://www.teepop-music.com/sugiyama/

*杉山たかしのファンタジースケッチ
FM伊東なぎさステーション(76.3MHZ)毎週日曜6:30〜7:30
イセハラFM(85.7MHZ)毎週木曜21:00〜22:00

2002.11.22掲載



イングリッシュ・スピーチコンテストで みごと優勝
杉山 恭子さん

「まわりの人に自分の意見をわかってもらいたい、そう思ってがんばりました」
「Do you like your mother?」こんな問いかけからはじまった杉山さんのスピーチが、各校から選ばれた21人の強豪中最高の優勝に輝いた!
国際人をめざす若者の研鑽の場にと小田原ライオンズクラブが主催して、毎年行なっているイングリッシュスピーチコンテスト。18回めを数える今年も9月にアジアセンターODAWARAにて行なわれた。友だちの応援を受けて「やってみよう」とチャレンジした杉山さん。結果を聞いた時には「びっくりしちゃって涙が出てきた」そうだ。
杉山さんのスピーチのテーマは『母の日』。お母さんが大好き! だからテーマにした。インターネットで調べて自分の体験や考えを加えて英語で原稿をつくった。気持ちを込めれば自然に表情や手の動きに出る、と一言一言を大切に話す事を心がけた。家で練習して原稿を見なくてもスピーチできるようにした。でも、学校でやった練習では顔が真っ赤になってしまう。
コンテスト当日、17番・自分の番がきた「緊張してました。もうやるしかないと思ってはじめたら、だんだん気持ちよくなってきました」約5分の英語でのスピーチを堂々と終えた。本番に強いタイプ!? 「でも、終わったらまたドキドキしてました」と笑顔。
白百合学園では「一流の国際人をめざす」という学校の方針があるそうだ。現在3年生の杉山さん。英語が好きで、卒業後は英語を母国語としている国に留学したいとずっと思っていた。今回の優勝で、その思いがいっそう強くなって現実味をおびた。「早く行きたい」と目を輝かす。夢が広がる…このコンテストでがんばった事は、これからの歩みの糧になる。

2002.10.11掲載



社交ダンス
アマチュアランキング神奈川県で1位
小沢 和重さん真喜子さん

夢は自分たちのスタジオをつくって教室を開くこと
「好きなことが一番、努力しました」
小中学校の同級生だったという2人、19才で結婚して14年めになる仲のいいご夫婦だ。ダンスをはじめたのは7年ほど前、若くして結婚したため心配だったのだろう「2人共通の趣味があった方がいい」と真喜子さんのお母さまの強い! すすめがあったそうだ。「目的なく入ってどんどん楽しくなっていった」と和重さん、真喜子さんは「子育てから開放される時間だったらなんでもよかった」
と2人ダンスにのめり込んでいった。動きの激しいラテンを中心にぐんぐんと上達していった。
アマチュアの中では最高級のA級まで到達。全日本を意味するそのA級の試合で7位の成績もおさめた。今年の春には本場ヨーロッパの全英選手権にも出場…いわゆるダンス界エリートコースを歩んでいる。ここまでこれたのは? 「とにかく練習」と2人声をそろえる。フィギュアスケートのように点数が付いて順位が決まる競技。悔しい思いも嬉しい思いも一緒に味わってきた。もっと上手になりたくて、家具を移動して夜中まで練習することもあるそうだ。相手の心の動きはダンスを通してわかる。ケンカをしているとそれが出て、いいダンスができない。共に成長しているのは技術だけではなさそうだ。
10月5日・6日に県代表として広島で行なわれる都道府県対抗ダンス選手権に出場。今は仕事を持つアマチュアだが、試験を受けて来春にはプロになりたいと考えている。
ご両親と中1の息子さん小4の娘さんの6人家族。練習に試合にとダンスを中心に忙しい。「子どもが『うちのパパとママはダンスをやっている』って友だちに自慢気に言ってくれるのがうれしい」と素の笑顔をみせる。

2002.9.20掲載



小田原女子短期大学
家政学科1年
船津 桂子さん

「迷っているならやっちゃえ!の精神で飛び込みました」
女子短大生、年令は50才。生活全ての分野に及んで幅広く学べる生活科学コースを選択している。とれる授業は全て選択。少し早めに登校して、前から2〜3番目の一番聞きやすい席に座り、先生の話に熱心に耳を傾ける優等生だ。
28年間勤めた会社を一昨年の秋に辞めた。22才で結婚して以来「家庭と仕事だけの生活」だった。短大で学びたいという思いは「漠然とあった」そうだ。
船津さんは特別自己推薦制度を利用して入試をパスした。小田短では他に社会人特別選抜などがあり、一度社会に出た人が再び学びたい時に受け入れやすい体制ができている。そして、キャンパスライフは入学後が本番。同級生の親は自分より年下、という船津さん。「不安はすごくありましたが、深く考えないで飛び込んじゃう性格がよかったみたいです」と笑顔をみせる。若者も柔軟だ。
直角の木のイスは懐かしい反面お尻が痛い、体育の授業の後は週末まで疲れがとれない、メールの着信音が鳴る回数が増えてご主人にからかわれたり、世代の違う学友といわゆるタメ口で盛り上がったり…新鮮な中で気負いなく楽しく勉強している。好きな科目は? の質問に「心理学とか、文章構成法…今さらなんですけど秘書検定も受けました」次から次と出てくる。「みんなおもしろいんです」「高校の時は勉強好きじゃなかったんですけどね」と首をひねって笑顔。
56才のご主人は現役のサラリーマン。「僕も大学に行きたい」なんて言っているそうだ。船津さんがいきいきとしているのが嬉しいのだろう「手放しで応援してくれます。感謝しています」

2002.9.6掲載



二足のわらじをぬいで今年の4月から尺八に専念
尺八演奏家
香川 一朝さん

「家族の理解? どこの家だって大歓迎とはいかないでしょ」…とは言え満面の笑顔
今年の3月、54才にして29年間勤めた市役所を退職。これまでライフワークのように追求してきた尺八に専念することにした。「自分がこのままじゃいやだ」と仕事を辞めて好きな道に…うらやましいような無謀なような決断にも見えるけど、香川さんの場合こうなるべくしてなった。誰でも真似ができるものでもなさそうだ。
尺八は竹に穴が5つあるだけの単純な楽器。出会いは大学のサークルだった。いわゆる団塊の世代で学園紛争の真っただ中。学校へは行かず、尺八の先生のお宅に「入りびたって」いた。演奏家としてセミプロのような活動をしていたものの25才で「いろいろな状況を考えて」就職。それからは、職場に尺八の同好会を作ったり、週末に母校の大学で後輩を指導したり「極力時間を作って」尺八を続けた。それが仕事も中堅ともなってくるとままならず、長いこと考えて1年くらいの準備期間を経て今年の3月にいたった。「意志が弱くて今頃辞めました」晴れやかな笑顔をみせる。6月で55才になった。
今は何より稽古に励む。尺八にはいくつか流れがあり、香川さんが取り組んでいるのは古典本曲という江戸時代からのものだ。「本物を聞いてもらいたい」その思いは強い。三味線や和太鼓が流行って邦楽が支持されるのは喜ばしい反面、叩きつけるような激しく派手な音が多い。静かな古典的なものが追いやられるようで危惧している。「私たちの責任です」長年地道に自分を磨いてきたプロの顔を見せる。
*香川一朝尺八コンサート/9月7日午後6時より、小田原教会(小田原市飯田岡@36・1128)にて。おとな500円、中高生300円。

2002.8.30掲載




右から永岡さん、稲葉さん、太刀川さん。「これだけは相手に取られたくない」という札がそれぞれあるそうだ。「恋の歌?7割ぐらい共感できる」と稲葉さん。
第26回全国高等学校総合文化祭
小倉百人一首かるた
神奈川県代表
西湘高校かるた部2年
稲葉 遼一さん
太刀川 穣さん
永岡 真一さん

お手つき一つがきっかけの大逆転も!
『静』と『動』の緊張感 日本の伝統文化は奥が深い
お正月の遊び…こんなイメージがある『かるた』だけど、3人の話しを聞いて奥の深さを感じた。 自陣・相手陣25枚ずつ並んだ小倉百人一首の札、その札を早くなくした方が勝ち。というのが競技かるただが、札の並べ方、様々な心理的かけひき、読まれる札の順番などなど、知識や瞬発力を越えた力が勝敗を左右する。
何の気なしにかるた部に入った3人が、予選を経て全高総文化祭の県代表に選ばれた。全国の高校生による文化・芸術の祭典で、文化部のインターハイとも言われている全高総文化祭、レベルの高さはおのずと予想できる。「全国大会なんて、かるたしか行かれないし、悔いの残らない気合いの入った試合をしたい」と永岡さん、「これからの人生の糧になるような経験にしたい」と太刀川さん、「みんなのおかげで選ばれたから、県の代表として強さをしめしたい」と稲葉さん。それぞれに自分の言葉で抱負を語ってくれた。
放課後ほとんど毎日練習があるかるた部の同期、共に切磋琢磨する中からのみできる強い絆をみせる一方で、3者3様の話しのやりとりが聞いていて楽しい。稲葉さんは歌の意味を調べてそれが解ると「とれる」と思うそうだ。そんな姿に感心しつつも永岡さんは「意味は全然気にしない」。中学まではマイナス思考と言われて嫌だったという太刀川さんが、こんな仲間の話を嬉しそうに解説してくれる。
かるたの団体戦は1チーム5人、1対1で対戦して3勝以上した方が勝ちだ。大会は8月9日・10日の2日間藤沢市で行なわれる。技術、スピード、経験、運…かるたに絶対はない。県代表として自分の力がだせるように、健闘をいのる!

2002.8.2掲載






牧牛さんのお地蔵さんは素朴で表情が豊か。癒される人がたくさんいる。
『なんとかなるさあきらめず』
出版記念作品展が7月20日(祝)より
陶人形作家
小林 牧牛さん

考え方はサラリーマン!? の陶芸家人生の好機を逃さず好きな事を生業に
6年前、23年間のサラリーマン生活にサヨナラした。46才、一人息子は高校3年生で家のローンは20年以上も残っていた。「あの時は周囲の100%が猛反対でした。でも、あれを逃したらチャンスはもうなかったと思います」落ち着いた大人の印象とともに、少年のような人なつこさがある人だ。
東京杉並に生まれ育つ。子どもの頃からねんどをこねたり絵を描いたりするのが好きだったが、それはそれとして理系の大学に進み会社員になった。結婚後、事情があって転職、母方の親戚を頼って小田原に越して来た。
勤め人が肌に合わなかったようで「ストレスがたまってました」と振り返る。知人に紹介してもらった焼物の先生の所へ。そこで土の練り方、釉薬の作り方、焼き方など焼物の基本を教えてもらう。休日に就業後に仕事をしながら通いつめ、10年たって先生から「もう教えることはない」と言われて独立。サラリーマン人形作家のはじまりだった。
…と言っても、そうあまくない。庭先の小さな窯での試行錯誤。最初の3年間は10体焼くと10体が窯の中で壊れていた。「ガレキの山を築きました」と今では笑い話だけど、あの頃は「辛かった」と正直に明かす。ただ、何回も何回も粘り強く繰り返したことで牧牛さんオリジナルが産まれた。 作品が少しずつ認められるようになったその頃、会社では希望退職者を募っていた。そこで「今だ」と脱サラしたのでした。
作品をカバンに入れて、京都や高山のギャラリーへ飛び込みの営業に行ったこともある。好きなだけに努力と集中力は人一倍。今では全国32件のギャラリーが常時販売してくれる。6月にはフランスのエスパスジャポンにも出展した。先ごろ出版した本『なんとかなるさあきらめず』は好評だ。…「努力もあったかもしれないけれど、世の中には器用に上手に焼く人はたくさんいます。運がよかったんです。先のことはわかりませんよ」こんな奥様の言葉に小さくうなづく。ギャラリー展示前に注文が入って、待ってもらうような状況が続いているが、作り方を変える気はない。作品を買った人からの便りには全て返事を書いている。作家としてスタートした時から今も変わらない。
●小林牧牛陶人形展/開催中〜7月16日日本橋高島屋
●小林牧牛出版記念作品展/7月20日〜27日クラフトえいと(小田原駅西口徒歩1分・TEL0465・32・0188)20日午後3時〜午後5時サイン会

2002.7.12掲載



小田原市赤十字奉仕団救護部
部長
藤本 行和さん

何気なく待機している精鋭たち
楽しみに来ている方が何事もなく楽しく過ごせるように
赤十字というと全国的なボランティア団体で、主に献血のイメージがあったけど認識不足だった。小田原市赤十字奉仕団の救護部はイベント会場など人が集まる場所に待機している。それぞれに赤十字救急法救急員などの資格をもち、会場でのちょっとしたケガの手当てから、急病や事故の応急処置までしてくれるのだ。特に重症の場合、救急車が到着するまでの5分間が大切と言われるだけに、この救護ボランティアの存在は大きい。
ただ、小田原での歴史はあさい。
10年前に若者たちが声をあげたのがスタートだった。当時は婦人部の手伝いをしながら、救護ボランティアでは先駆的な箱根町で活動していた。4年ほど前にようやく組織にしたが、小田原市内の認知度は低く、地元での活動先を探して市役所や観光協会などを、いわゆる「営業して」まわった。救護班の必要性、ボランティアできる体制があることを説明。「やる気が通じて?!」今や祭りやマラソン大会などのスポーツイベントにはかかせない存在となりつつある。
救護部責任者の藤本さんは現在30才。大学1年の時に何気なく参加した救護ボランティアで、クモ膜下出血で倒れた人を目のあたりにした。その体験で今がある。自分の時間とお金を使ってお願いして、ボランティアをさせてもらえるような状況を、淡々と改善していった。6月30日には救護部10周年の記念総会を行ない一つの節目をこえた。部員は25才〜30才を中心に35名。予算的なこと、雑務の処理体制など、組織としての課題をまだまだ抱えるが、必要性や部員のやる気は高まる一方。若い組織は若いスタッフが成熟させる。
2002.7.5掲載



小田原市消防署
消防副士長
救急救命士
杉本 千絵さん

「忙しくて考える間もなく突っ走ってきました。これからは消防隊や救助隊の勉強もして巾を広げたい」
ちょうど進路を考えていた頃に、テレビで観て「やってみよう」と思ってなったのが救急救命士。今年で8年め、小田原市はもちろん神奈川県で初の女性救急救命士だ。
救急救命士は平成3年にできた新しい国家資格。いわゆる消防士さんだが、救急車で現場に行き専門的な知識と技術をもってけが人や病人と向かい合う。その内容は千差万別。小さな事故から一刻をあらそう命の瀬戸際まで…強い精神力がないとやっていかれない。もちろん体力も必要だ。出動は昼夜を問わず「たて続けに要請があって、仮眠する間もなく気づいたら朝だったなんて」余裕の笑顔で頼もしい。
市民は様々な思いで救急車を呼ぶ。救急隊が到着した時には既に呼吸や脈が止まってしまっている場合もある。助かる人は数パーセント。懸命に処置をして病院に渡す…それが、1ヵ月ぐらいして「元気になりました」と歩いてお礼を言いにきてくれたことがある。「私たちが行くまでの家族の対応、私の処置、その後の医師の処置、全てがうまくいって命が救われます。その場に立ち会えたことがうれしいです」
職場では紅一点。男社会だとは知らないで入った。でも「知らなかったからここまでこれたのかもしれません」とも。「人を持ち上げるのもコツがあるんです」と体力的なハンディは技術でカバーすることを覚えた。「対応がソフトなので、子どもや女性を相手にする時、特にいいですね」とは上司の弁。男性と同じように頑張りつつも女性ならではの存在感だ。消防署は試験による階級制。「こうなったら女性初の隊長をめざします」と冗談っぽく笑うが、準備の勉強は進めているようだ。
2002.6.28掲載



小田原北條太鼓の会会長
武尾 幹さん

子どもの頃からお囃子が好きだった
体力勝負の『和太鼓』に魅せられて12年
汗だくになって、無心にバチをふる…和太鼓の魅力は、とにかく「日本人のお腹とハートに響く」ところだ。
平成2年に小田原市で『ときめき夢まつり』という大きなイベントがあった。それに合わせて市の呼びかけでできた創作太鼓のグループが『小田原北條太鼓の会』だ。以来「本当に太鼓が好きな人」が残って市から自立した。今も花火大会や夏祭りなど、小田原のイベントにはかかせない。
小田原北條太鼓の会会長になって9年の武尾さん「ぬけられないんですよ」と苦笑いするが、なかなかの太鼓好き! 会の練習・集まり・福祉施設へのボランティア訪問・地域の子どもにお囃子の指導などなど「週に5〜6日は太鼓です」と、またまた苦笑。早口のあっけらかんとした明るい物腰は、いかにもお祭り好きな昔ながらの小田原の人だ。雑多な会の仕事を勢いよくこなす。
和太鼓演奏は大きくわけて、まったりとしたお囃子と北條太鼓のような迫力ある創作太鼓に分かれる。その創作太鼓も衣装やパフォーマンスも取り入れた見せる太鼓と、演奏を聞かせるだけのシンプルな太鼓がある。北條太鼓は後者だ。オリジナル曲は10曲ほど。会員は幼稚園児から70才代まで約70人、半分は女性だ。 リズム、音の強弱、早い遅い…間口の広い単純な楽器だけど奥が深い。10分〜20分の1ステージで、くたくたになってしまうほど、体力と気力を使って演奏する。夏本番を迎えて、武尾さんたちの出番だ! 小田原はお祭りが多くて演奏する機会がたくさんある「めぐまれています。他の地域の仲間からうらやましがられます」と、少々胸をはった。
2002.6.21掲載



「一年間よろしくお願いします」
2002年度 ミス小田原
栗山 奈巳(なみ)さん

貴重な出会いがたくさんあるミス小田原の仕事、一回一回を大切に頑張ります。
ミス小田原になることは「母と私の夢だったんです」と、素直な笑顔を見せる。以前、お母様の知り合いの娘さんがミス小田原になったことがある。とても素敵な女性で子ども心に憧れた。母娘で「ああいう女性になりたい」と思ったそうだ。好奇心旺盛で明るくて、なにより子どもの頃から小田原が大好きな栗山さん。ミス小田原になるべくしてなったとも言えるだろう。
既に活動に入って2ヵ月近くたつが、「大変だった事はありません」そして「任期の一年は早いので一回一回の経験を大切にしたい」とミスとしての時間を楽しんでいる。
会社の社長、地域文化にたけているお年寄り、普段接点のない人と話しができるのが「うれしい」と目を輝かす。それは、趣味で入っている手話サークルでも同じだそうだ。気負いのない向上心はミス小田原の活動に大きなプラスになる。
実は、栗山さんは今年の春に大学を卒業して社会人になったばかり。職場の箱根まで通うのに、毎日6時30分に家を出て帰って来るのは夜の8時、休みの日はミスの活動にとハードなのだ。だから、今一番気を付けていることは健康管理。具体的には、規則正しい生活と元々好きな和食を中心にした食事を心がけている。のんびりとしたものごしは周囲を和やかにする。その一方で几帳面ながんばり屋の姿も感じられる。
両親と兄と弟の5人家族。よくお母様の話題になるので「お母さんと仲がいいですね」と聞くと「家族全員仲いいですよ」と、少々誇らし気に答えてくれた。学生時代に留学を考えた時、心配症のお母様が許してくれなかったエピソードが? 行動派の箱入り娘のようだ。
2002.5.24掲載



「一年間よろしくお願いします」
2002年度 ミス小田原
秋山 憲子(のりこ)さん

「短大時代・就職したての頃にはわからなかった小田原の魅力、今では充分感じてます」
身長170cm、整った顔立に一見華やかな印象を受ける、がそれだけではない。言葉を選びながらはっきりと話すものごしは落ち着いている。
短大を卒業して憧れていたアパレル業界に就職。毎日、品川や横浜まで通っていたが夢と現実のギャップに1年で退職、地元の企業に事務職として再就職して今年で5年めになった。秋山さんは「ここにきて生活が落ち着いてきた」と振り返る。都会に魅力を感じていた頃もあったが、今は「小田原のよさがわかってきました。以前は好きじゃなかった魚もおいしいな〜って、年なんですかね?」と笑いを誘う。そして、せっかく小田原に住んでいるのだから「何かしたい」「小田原の魅力に気付いた時、それをもっとアピールしたい」とミス小田原に応募し、みごと選ばれたのだ。今、仕事に趣味に社会的な活動にと一番充実している時と言えるかも。
旺盛な好奇心と尽きない向上心で趣味は多彩。フラメンコ、茶道、英会話…習い事で1週間のアフター5のサイクルはびっしり! 一方で日記を毎日つけるという地味?な趣味も。毎日いろいろな事があるので書くことはいくらでもあるとか。「時々読んでその時のことを思いおこしています」自分と向き合って、それを肥しにより成長する。
現在、両親と3人で暮らす。「(ミス小田原になって)もてはやされることもあるかもしれないけど、今のままでいてね」とお母様から言われているそうだ。来年の3月までイベントに観光PRにと様々な活動が待っている「この機会を、いろいろな方との出会いを大切に、見聞を広めてより立派な女性になりたい」と抱負を語ってくれた。
2002.5.17掲載



「一年間よろしくお願いします」
2002年度 ミス小田原
湯川 智子さん

子どもの頃に遊んだ小さな神社の境内
中学の頃走った海岸…小田原は私のまち
「人と話すのが好きで人見知りをしない性格です」と自らを分析。誰とでも自然に接する事ができるのは大きな魅力だ。
小田原駅からほど近い、古くからの家が多い浜町に生まれ育つ。子どもの頃から社交的。小学生でミニバスの小田原選抜に選ばれ、姉妹都市の今市市に遠征。高校生では単純に「安いし安心して留学できる」と、市の国際交流事業・ときめき国際学校を利用してオーストラリアに行った。「私にとってとてもプラスになった」体験。ミス小田原のチャンスを活かして、今度は自分が小田原の役にたちたいと考えている。
積極的に物事に向って行く一方で、地道な努力家でもある。短大時代に「どうしてもとりたい授業」があって、毎日5時半起きで1年間通った。ミス小田原のはじめての仕事で幕張に行く前に、「事前に準備をしたい。資料をもらって勉強しておきたい」と言った言葉が印象的だった。
湯川さんの多彩な趣味の中で、最近凝っているのはアロマセラピー。香やオイルをたいて香りを楽しむ。好きな音楽をかけて「部屋で一人でぼーっとしている」そうだ。こんな空間が、明るい元気の源なのかも。
会社員の湯川さんは、通勤に小田原駅を利用している。「小田原に来てもらうようにPRすることも大切ですが、来てくれた人に楽しんでもらって、また行こうって思ってもらう事も大切だと思います」ガイドブックを手にした人を見たら、話しかけてみようと考えている「変な人だって思われるかもしれませんね」ミス小田原の自覚充分。笑顔が頼もしい。
2002.4.26掲載


ボランティア善意通訳団体
小田原箱根SGGクラブ
事務局
池田 百合子さん

「歴史ある街小田原を誇らしく思えて自信をもって案内しています」
SGGとは国の機関である国際観光振興会が、全国で組織化している善意(ボランティア)通訳のグループ。外国人旅行者を無償で案内する。今年2月現在で個人47500人・団体80(4800人)が登録。その中で地元の『小田原箱根SGG』が、顕著な活動が認められて、このたび優良善意通訳団体として同振興会から会長表彰された。
池田さんはその事務局。20人ほどの会員は転勤、留学などで入れ代わりが多く仕事は雑多。ボランティアの依頼は個人的にeメールで来たり、地元の観光協会からだったり、自ら外国人が多い宿泊施設に出向いて需要をみつけたりと様々。プロの通訳の邪魔になってはいけないし、地位が確立されていないだけに同行した交通費は自腹で持ち出しがほとんどなど、苦労も多い。が、自分の街にいながら国際交流できるのは大きな魅力。今年はサッカーのワールドカップの年で、それにちなんだドイツの放送局の箱根紹介番組の取材に同行した。大会期間中は横浜でボランティアをする予定もある。オランダにメル友ができたり感謝の笑顔に喜んだり、と自分の語学を活かして楽しく活動している。
中学1年の時、外人に英語で「小田原キャッスルはどこ?」と聞かれ、解らなかったのがショックで英会話をはじめた。そこから積極的に世界を広げていった。その姿勢は50才になった今も変わらない。海外と自由に交信できるパソコンとデジカメにはまっている。きちんと説明できるようにと気軽にはじめた小田原城の勉強も、やめられなくなった。その楽しさを目を輝かせて話す。池田さんの世界はSGGを中心にどんどん広がる。
2002.4.5掲載




内閣府防災ポスターコンクールで大臣賞を受賞
鈴木 恵美里さん

好きな科目は数学。運動も大好き!
「また何かをみつけて、懸賞感覚で挑戦したい」

内閣府と防災週間推進協議会による第17回防災ポスターコンクールで、いわゆる最優秀賞の防災担当大臣賞を受賞した鈴木恵美里さん。学生(中高生)の部・2740点もの応募の中からの受賞だ。昨年の夏に出品し、受賞の知らせが届いたのが今年の1月。『話してますか? 災害時どーするか』をコピーに、中央に相談する家族4人、そのまわりに突然の災害にあわてている人たちが描かれている。自分の家族をモデルに描いたそうだ。「災害がおきた時は家族のまとまりが大事です。でもいつも家族が一緒にいられるとは限らないので、どうするかを話しておくことが大切だと思って描きました」。「すごくうれしかった」一方で「審査する人にもよるので運がよかったと思います」と少し照れくさそう。
実は鈴木さんは読書感想文でも大きな賞をとったことがある。小学生の頃マラソン大会で優勝したことも! 文武両道にたけた多彩なスーパー中学生だ。本人いわく「何かに挑戦して賞をもらえるのが好き」な「努力型の人間」だそうだが、気負いのない真面目で前向きな姿勢には、まわりの先生方からも「見習わなければ」との声があがるほど。
最近よく耳にするアフガニスタンに興味を感じて早速本を読んだ。今回の受賞をきっかけに防災にも興味をもつようになった。将来は「自分の力や知識を活かして世の中に貢献できる仕事がしたい」と考えている。だから「今は力をつける時期、勉強をがんばります」と素直だ。こんな姿に「心が疲れないか」と心配する先生もいるが、本人はいたって自然。少女の底力は大人の想像力をはるかに越えている。
2002.3.8掲載



『小田原梅わいん』10万本達成
小田原酒販協同組合 事務局長
福田 喜代美さん

「現実は厳しい、淘汰されている時代です。物を売るのはたいへんですね」
県西地区2市8町の酒屋さん約380件が加盟する小田原酒販協同組合。とかく規制が厳しく競争が激しい酒屋さんを裏方としてサポートする組合だ…
ところで『小田原梅わいん』はご存知だろうか? 小田原の特産である梅を使った、すっきりとした甘さが好評の、地域限定販売のワイン。発売以来3年半で、このたび出荷10万本を達成した。「小田原の特産品を広くアピールして地域の活性化につなげたい。新しい商品をつくりたい」こんな思いで行政と酒販組合(民官)が協力してできた商品だ。街興しのための、このような新商品開発はよくあること。しかし、梅わいんのようにうまく定着する例は少ない。
酒販組合の事務局長福田喜代美さんは、開発の段階から梅わいんにかかわってきた。「甘いだけの飲み物にはしたくない」とティスティングを重ね、完成した梅わいんをとにかく知ってもらおうと、お祭りなどのイベントに自ら積極的に参加。試飲会で消費者の反応をつかむ。今回の10万本達成には「満足というより一つのくぎりとしての喜びを感じます」と冷静。それよりも「これから」を見すえている。
事務員として組合に入ったのが約20年前。事務局長となった9年前には、県西地区にもディスカウントの酒店が進出しはじめた変革の時だった。「酒屋さんに元気がないと組合はなりたたない」と奮起、「ストレスで太りました」と人を笑わせる。
子育てを卒業した現在、85才のお母さまと2人暮らし。まだまだ自分の時間は持てないけれど「今年はやりたいことがあるんですよ」といたずらっぽく笑う。持ち前のパワーと明るさでなんでもできそうだ。

2002.2.22掲載


 
南足柄市にできたアサヒビール神奈川工場
工場長
神津 和民さん

工場5月9日、ビール園7月1日にオープン!「オープンしたら、ぜひ遊びにきてください」
神奈川県は「全くの初めて」と言う神津和民さん55才。南足柄市怒田の丘陵に、5月9日にオープンするアサヒビール神奈川工場の工場長だ。
12・8万坪もの敷地に最新鋭の設備を整え「地域に根ざした新工場」とオープン前から早くも注目を集めている神奈川工場。大森の東京工場を移転させるかたちで、年間15万KL(大ビン約1200万箱)の生産能力を備えている。3月に出荷がはじまり、正式オープンが5月9日。そして工場見学、できたてビールや料理が楽しめるアサヒビール園が7月1日にオープンする。
神津さんは工業高校を卒業後アサヒビールに入社。設備を整える技術系の職場を主に、12年前の茨木工場のオープンに携わる。そして今回、平成9年のスタート時から指揮をとる立場で神奈川工場をつくりあげていった。5年前の秋に初めて怒田の地を訪れて「色づきかけたみかん畑が印象に残ってます」工場のイメージがふくらんで、工場らしくない自然にとけこんだ工場をめざした。地域との共生・地球環境保全への貢献はアサヒビールの取り組みポイントである。緑地を半分以上残し、1300本の桜を植樹した。工場を採点すると?「90〜95点ですね。スタッフみんなの力がまとまりました。満足です」そして、残りの5〜10点はこれから…「地元の方にこの工場を自分の庭だと思って親しんでもらいたいんです」神津さんの目はまっすぐだ。
趣味は歩くこと。箱根山や駅伝のルートなどを休みの日に歩く。怒田の職場へは大雄山駅から毎日35分かけて歩く。もちろんビールが大好き! 夜はいつも「色々な店で飲んでます」

2002.2.15掲載


 
「みなさん健康にいい 小田原の梅干しを食べてください」
小田原市梅研究会 会長
柏木 泰三さん

今年の梅の開花はやや早め。小田原では十郎と白加賀の2品種が2月いっぱい楽しめそう。
小田原市梅研究会は、市内の梅を栽培している農家で作っているグループ。現在会員は約260人。柏木さんはその会長を8年前から務めている。
小田原を代表する産業の一つ『梅』は古くから下曽我地域を中心に栄えてきた。特に戦時中は梅干しの軍隊からの需要が大きく全盛だった。それが戦後、塩の不足と食料難で梅園は荒廃。昭和30年代に入って「梅園の復興を」とできたのが、同会前身の小田原梅研究同志会だ。45年の歴史の中には、地域の振興と会員各々の生業に対する思いが息づいている。
来週末から小田原梅まつりがはじまる。下曽我地区の梅は農家が収穫を目的に育てているもので観光用に栽培されたものではないが、各農家の畑を一般に開放して楽しんでもらう。人工的な梅園とは違う風情がある。生まれた時からずーっとこの地で生活をしている柏木さんは「遠くからも来てもらえてありがたい」と目を細める。そして「今でこそ観光農業が注目されていますが(小田原梅まつりは今年で32回め)早くから目をつけた先輩たちのおかげで今があります」とも。
梅は小田原市のシンボル。曽我梅林の35000本に対して、小田原城址公園にも220本の梅の木があり観光客が訪れる。梅研究会の会員は、まつりの前に毎年ボランティアでお城の梅の剪定をする。
「新しい枝を伸ばすようにしないと、いい花がつきません」技術的な話しになるといちだんと目が輝く。
梅まつりは曽我梅林、城址公園、辻村植物公園を会場に2月1日から3月3日まで。柏木さんたちが大切にしている梅が、たくさんの人の心を和ませることだろう。

2002.1.25掲載


 
小田原で唯一の人力車夫
「小田原駅東口やお城周辺にいます。 声をかけてください」
金子 博さん

なにもかも初めて! ガイドができるようにとただ今小田原の歴史観光を勉強中
趣味は登山、体力には自信がある。金子博さん53才。昨年末から小田原駅周辺で『ねこ屋』と言う屋号の人力車を走らせている。
2年前に脱サラをした。人力車をやりたいためではなく、好きな登山のため。ヒマラヤのK2(チョゴリ)に3ヵ月かけてチャレンジ。標高約4500mのベースキャンプを拠点に天候と戦いながら3回アタックして、4回めで体力の限界でリタイアした。自分の足で踏み入れた大自然…またチャンスをみつけて「ヒマラヤのどこかに行きたい」と考えている。
生まれも育ちも横浜の金子さんは、これを機に真鶴に移り住んだ。自然があふれていて静かで温暖なところが気に入った。機械を相手にした技術系の会社員だったが「勤め人をやるより独立した仕事を」と箱根で人力車を引いている方の元で2ヵ月勉強をして開業にいたった。だからこれが生活のカテとなる。
現在、小田原城周辺をまわる基本コースが11。体験乗車コースは約10分で2人で1000円。観光を中心とした設定だが、足が不自由なおばあさんに「家まで行って」とタクシーがわりになったことも。2人乗りのこの人力車は、サスペンションが効いているので乗り心地よく、視線が高くなるので街の風景が新鮮にうつると乗客に好評だ。今のところその乗客は1日平均約5組。小田原市や商工会議所、商連では、観光のポイントにとバックアップしてくれている。
「おもしろいじゃない」と応援してくれる奥様とは、ただ今仕事の関係で別居中。少々さみしくて温和な山男は、街の観光振興の一翼として、広がる思いを胸に車を引く。

2002.1.18掲載


 
社団法人小田原青年会議所
2002年度理事長
大川 裕さん

40周年の記念事業の時には涙した仲間とともに地域に貢献できる人として生きる
「青年会議所の看板を背負ってますから、うかつなことはできませんね」と笑みを見せる。2002年度理事長の大川裕さん。今年のポイントは大きく分けて3つだそうだ。
(1)顔のみえる青年会議所。「まちづくりをテーマとした団体はたくさんありますが、その中で青年会議所の特徴を見せて一般の人に認知してもらわなければいけません」。具体的には、ボランティアで小学校の特別授業をする『国際理解教室』と、中学生が自分の住む街を調べてそれを観光ガイドとして案内をする『ビットガイド』。この2つの小田原青年会議所独自の活動をより充実させていく。
(2)全国大会小田原開催への基礎固め。「以前より話しが出ていましたが、来年の45周年で大きく動きたいので今年はその準備です」昨年の大阪での青年会議所全国大会には2万人もが市外から集まったと言われている。「いろいろな方面の方と相談しながら7〜8年後には実現させたい」
(3)メンバーの増員。
…… …… ……
青年会議所理事長の任期は1年と決まっている。歴代理事長それぞれ、野心を持って不安を抱えて希望を持ってのぞんできた。大川さんは「正直はじめは嫌でした。でもまわりのスタッフが決まって、いけると感じました」力強いサポーターがたくさんいる「あいつじゃ手伝わないとまずい、って集まったみたいですよ」。
25才ではじめて青年会議所に入り、当時の理事長のあいさつを「人前で堂々と話しをしてて、オーラがあって近寄りがたい」と感じていた青年が12年たって、自分がその立場になった。仲間が作ってくれた大川さんのキャッチコピーは『いいべ、小田原』。まちづくりの中心的存在の一人となって、この言葉はとても気に入っている。

2002.1.11掲載


 

左眸さん 中央竹内さん 右友香さん
酒匂川の自然観察で環境大臣賞を受賞
竹内時男さん(サポーター)、
竹内友香さん、大竹眸さん(小田原市立城北中学校1年)
桜井ジュニアエコクラブ

「自然のおもしろさは発見できる楽しさ、親子共通の趣味です!」
酒匂川の自然を調べて記録した活動報告が『地球にやさしい作文・活動報告コンテスト』の団体活動報告部門で、みごと環境大臣賞を受賞した。昨年の12月には東京で表彰式、その後小田原市長へ報告、市エコクラブ交流会と忙しい年末だった。
エコクラブとは? 環境省が全国の小中学生に呼びかけている環境活動のクラブ。子ども2人以上とサポーターとなる大人が1人以上いれば誰でも登録できる。小田原市内では54クラブが登録。その中で桜井ジュニアエコクラブは部員17人、サポーター4人、自然観察を主な活動としている。ほとんどの部員が現在中学1年生。一昨年、小学校最後だからと地元の川、酒匂川を調べてタイムカプセルに残そうと考えた。1年間に24回の観察会をして活動記録集にまとめて発表会も開いた。記録は子どもらしいかわいいイラストと手書きを駆使して、わかりやすい。それが今回評価されたのだ。
友香さんが活動で印象に残っているのは、丹沢湖で見た鹿。目の前で猟犬に追われた鹿が2頭、冷たい湖を泳いで必死に逃げていった。鹿が木の芽を食べる被害があると聞いていたけれど「鹿も必死で生活しているんだなって思いました」。眸さんはたんぽぽの観察が忘れられない。「元々日本にあった種類と西洋からきた種類があります。私が住む栢山では西洋のたんぽぽの方が多いです」
今年の3月に小田原市で『こどもエコクラブ全国フェスティバル』が開催される。全国からエコクラブの子どもたちが集まって環境について考える。今の社会を担っている世代が子どもの頃は、自然が身近にあるのはあたりまえだった…それがあたりまえでなくなった今を生きる子どもたちは、気負いなく頼もしい。

2002.1.1掲載


 
箱根で『現代押し花アートクリスマス作品展』開催中
近藤 レミ子さん
日本レミコ押し花学院 学院長

「押し花の指導を通してたくさんの人と出会える、これは私の人生のライフライン、切り離せない事です」
「種をまいて大切に育てた花がとても愛しくて、見て枯らしてしまうのが惜しくて、もっと長く楽しめたらという強い気持ちが押し花にたどりつきました」
子どもの頃、摘んできた花を紙に貼り押し花にして遊んだ記憶は誰でもあるだろう。近藤レミ子さんは、それをアートにして技を確立させて、花の世界に『押し花』という新しい分野を築きあげた。1979年には日本ではじめての押し花専門学校・日本レミコ押し花学院を設立した。求めるものがなかったので「自分で考えるしかない」と表現法、花の美しさを長く保つ方法を考えた。近藤さんの押し花は花にいっさい着色せずに永く美しい生命を与える。「大好きな花、プレゼントされた花、珍しい花…花を長い期間楽しめるのです」と押し花の魅力を語る。花をいつまでも愛でる気持ちは、思い出や出会った人を大切に思う気持ち。押し花アートの普及は心の豊かさ暮らしの豊かさにつながると考えている。そして「子どもたちにも、小さな花の命を大切にしながら、自然の大切さ、命の大切さ、一つの作品を最後まで作り上げる達成感を感じ取ってもらえるよう仕事をしていきたい」とも。学院での教室、指導者の育成、イベントへの参加など忙しい毎日。自宅は鎌倉だが、箱根・小田原には親しみがある。ただ今箱根ベゴニア園(塔ノ沢@0460・5・8383)でクリスマス作品展を開催中だ。押し花によるサンタさんの夢の世界、花を生かしたクリスマスリースなどなど、近藤さんの作品を中心に学院講師らの作品を多数展示。24日(振休)まで。体験教室などもある。「関心を示してくださる方が多くあれば幸せです」押し花の世界がもっと広がることを願っている。

2001.12.21掲載


 
ラッピングショップ&ランタナカマラアートアカデミー 主宰
篠 敦子さん
小田原でラッピング教室講師

ラッピングをとく時の一瞬のときめきにかけて心に残るプレゼントを…
あのTVチャンピオン『全国ラッピング王選手権』で第3回チャンピオン獲得。プレゼントを贈る時に大きなポイントとなるラッピングを生業として、日本はもちろん世界を舞台に活躍中。
アメリカではナイアガラにリボンをかけるイベントに参加「ずぶぬれになりながらの作業で、もう嫌ですね」と笑顔。米つぶを包む依頼を受けたり、ヘリコプターで吊されながらビルをラッピングしたり、車を走れるように包んでくれと頼まれたり…豊富な経験と技術と創造力を駆使して、たくさんの人の目を楽しませ感動を与えてきた。
「日本には100円の物を500円の包装紙で包んで贈る文化があります」と、なるほど品物に自分の手を加えて気持ちを込めたくなるのはうなずける。受け取る人の表情を思い描きながら、あれこれ工夫するのは楽しい。
古くから需要があったはずのラッピングだが、日本で一つの仕事として注目されるようになったのは最近。篠さんはその先駆けとして喜々として忙しい毎日を送る。企業からの相談も多い。ラッピングを工夫したことで売り上げが6倍になったという店の報告もある。現在小田原の川東地区にあるカルチャーセンターでラッピング教室の講師をしている。ギフトセラピストという商標を持ち、ラッピングのプロを育てている。
さて…もうすぐクリスマス。大切な人へのプレゼントのラッピングは?「上手に包もうなんて思わないで、失敗も活かすぐらいの気持ちでいいんです。リボンや紙をわざわざ買わなくても、家にある例えばアルミホイルや卵の空パックを利用するのもいいですよ」気軽なようで、かえって自分の創造力が試されるような…ラッピングの魅力の大きな要素かもしれない。

2001.12.7掲載


 
二科会会友
アトリエ中村主宰
中村かよ子さん

「絵は誰でもできる表現手段…人間誰でも自分の中にあるものを聞いてもらいたい気持ちがあります」
この人と話しをしていると「ちょっと絵を描いてみようかな」こんな気持ちにさせられる。
中村かよ子さん。新松田駅のすぐ近くの自宅の一室で絵画教室を長年やっている。現在生徒は5才〜71才約20人。日本大学芸術学部美術学科を卒業してデザイン系の会社勤めをへて今の教室を開いた。生徒は子どもが多い「自由な絵を描くので教えてもらうことが多い」また年配の生徒さんには「とても研究熱心で、どんどん上手になるんです。刺激を受けます」
二科展は今年で86回と歴史ある有名な美術展。絵画部門で言うと50号や100号もの大作で参加しなければならず、心得がなければもちろんダメ。約4500点もの出品の中から入選が約900点。出品すること自体がたいへんなら入選も難しい。中村さんは29才の初出品から連続24回入選。8年前には特選にもなり今年は二科展の主催側(友だち)を意味する会友に推挙された。「昔からお世話になっている絵の香川猛先生、家族、たくさんの人に応援してもらったおかげです」と言葉に力が入った。
最近の二科展ではよりうれしいことがある。一緒に出品した生徒が一緒にみんな入選している。子どものころから面倒をみている10才代20才代の新鋭たちの栄誉だ。が、しめ切り前は「たいへんなんですよ」とあけすけに満面の笑顔。失礼かもしれないが、絵の先生と言うよりも気さくなお姉さんといった印象を受ける。自らも「絵を描いている時以外はずぼらです」とまた大笑い。
 絵を教える時は「自由に好きにやらせる」がモットー。一番簡単なようで難しい。そして、絵は「解らなくてあたりまえ、好きか嫌いか、そういう単純なものなんじゃないかな」絵を描く楽しさが全身から伝わってくる。

2001.11.23掲載


 
小田原商工会議所
産業まつり運営委員会委員長
鈴木 守さん

自らのスローガンは『融合』と『全てが前傾姿勢』
「小田原の街は今なんとかしなきゃいけません」
11月9日〜11日に、小田原ダイヤ街・銀座通りPX駐車場で開催される『小田原・箱根産業まつり』の運営委員長。たくさんの人の手による、この大きなイベントを支える一人。
48才、生まれ育った小田原をこよなく愛し、仕事でも会議所の活動でも生活でも『まちづくり』がいつも頭にある。
自らが社長をつとめる家業はいかの塩辛の元祖と言われている老舗。だが「本業にしがみついていたら今の時代やっていけない」と、スーパー銭湯や駐車場など多角的に積極的に事業を展開する。『保守的』だとか『和を大切にして物事が決められない』と言われがちな小田原の商人の中では少々変わり種!? 「親の言う事も聞かないでね」とあっけらかんと笑う。そして「本当の小田原っ子はやるときはやるんです。リーダーシップを発揮して、粋に仕事をしている人を何人も知ってますよ」「ここ1〜2年で市街地も、いわゆる勝ち組と負け組がはっきりしてきました。でも、1人勝ちは絶対にできません。駅前が活気づくにはみんなでがんばらないといけないんです」と真剣な表情に。行動力ときたんのない物言いは魅力となって、まちづくりの推進役だ。
今年の産業まつりは、小田原商工会議所の青年部が誘致した商工会議所の青年部全国大会と合わせて開催する。全国から4000人もの人が小田原を訪れるとあって、街は色めきたつ。産業まつりと同時開催の全国物産展にも30店の出店が予定されている。鈴木さんの意気込みは「青年部を支援する立場で、つきなみだけど成功させたい」そして「全国はもちろんですが(小田原の街を)地元の人にアピールしたい」

2001.11.9掲載


 
(財)日本鳥類保護連盟神奈川県支部長
室伏 友三さん

「趣味と仕事がほとんど一緒でストレスはありません」
「鳥ばかにはならない。鳥を見ることによって周囲の環境を、自然を見る目をもっていたい」
室伏友三さん53才。湯河原中学校の理科の先生で、鳥の研究や保護での活動・実績は大きい。新聞などでも時々紹介され、鳥の先生としてちょっとした有名人だ。
湯河原町に生まれ育つ。プランクトンの研究をしていたお父様に連れられて、子どもの頃から箱根、丹沢…地元の野山を歩いた。いろいろな鳥をわなを作ってつかまえて自分で飼う。今の時代で思えば贅沢な少年時代を過ごしてきた。大人になってなった理科の先生は、室伏さんにとって天職だ。 鳥を愛でる楽しみが時代の流れで自然保護活動へ「とかく感情論になりますが、動物は可愛いだけじゃだめです。数をコントロールして保護・管理を人間がきちんとしなければいけません」確固とした信念がある。自宅にはタカの仲間からスズメまで、5〜6種30羽もの鳥がいる。傷ついた鳥が保護されてくるのだ。「リハビリをして野に放せるものは野に帰す、放せないものは最後まで面倒をみます」室伏さんの信念は、経験と実践と現場感覚に裏付けされている。
学校では「本物を見せながら立体的な教育を」と、ヘビの実物や鳥のはく製を教材にすることも「理科の教育を通して正当な環境意識をつけていきたい」。教え子が西湘鳥類標識グループという団体を作って室伏さんと一緒の活動をしている。これまで淡々と実践してきたことの大きな手ごたえの一つだ。父親から継いだ自然界での在り方を後進に、3人の息子さんにももちろん。
鳥とのかかわりは楽しいことばかりだそうだ。今後も今まで通り活動を。そして世界的なシンポジウムの開催を考えている。

2001.11.2掲載


 
リフレッシュスティでオーストラリアの農業を体験
桜井 綾子さん

スティ中に生まれた子牛に『アヤ』と名前がついた
休養が必要な年代、大自然にふれて気持ちを豊かに
小田原市が青少年の交流を通じて友好親善都市としておつき合いしているオーストラリアマンリー市。その交流を大人にもと、参加対象を40才以上にして企画されたのが『オーストラリアリフレッシュスティ』。桜井綾子さんはその1回めの参加者で、まだ暑かった今年の8月4日から49日間、海外での生活を体験した。
これまではグアムやサイパンぐらいしか行った事がなかった。気軽な趣味として英会話の教室に通っていたので「自分の英語力を試してみたい」と、このリフレッシュスティへの参加を決めた。
マンリー市に近いブラックヒースという大自然の中での生活。受け入れてくれたのは牧場を経営する日本人のおじいさんだった。「住みやすい町でしたし、困った事はなにもありませんでした」。市の事業ということもあって、経済的にも無理なく参加できたそうだ。学生と違い社会人はホームスティというと構えてしまうが、「おおげさなものではありません。経験がなくても問題ありませんし、予備知識がなくても英語ができなくても、なんとかなっちゃいますよ」みんな長期休暇や定年後の時間を上手に利用して、それぞれ参加した。実は桜井さんは今年の4月、18年間勤めた会社が事業を整理して退職を余儀なくされた。帰国してからの就職活動は決して思うようにはいかないが、ハツラツと目を輝かせる。「このリフレッシュスティは、自分がこれまでやってきた事へのごほうびです。気持ちも切りかわって私には必要な時間でした」
*12月2日午後1時30分より、リフレッシュスティ参加者帰国報告会がおだわら国際交流ラウンジにて開催。入場自由。

2001.10.26掲載


 
『雨のいたずら』でビクターから7月に歌手デビュー
早見 潤さん

年相応に味を出して歌っていきたい
「呼んでいただければどこへでも行って歌います」
子どもの頃から歌が大好きだった。美空ひばりさんや都はるみさんに憧れて演歌を歌っては、大人たちを喜ばせていた。
本名は古橋孝江さん。小田原市早川の出身で、友だちがたくさんいる50才の新人歌手だ。年令をかくさない「どうせみんな知っているんだし」と、あっけらかんと。営業で出会った人から「親しみを感じる」と共感を呼んでいる。
歌手への夢を抱きつつも、結婚して子どもをもうけ主婦として生活していた。ただ、理解あるご主人がカラオケの機材を家にそろえてくれて「若い頃はよく一緒に歌っていました」。2年前に縁あって、地元の作曲家の先生の元へ通うように。厳しい? レッスンと家族や友だちの協力で今回の夢のデビュー実現となった。
デビュー曲『雨のいたずら』はポップス系の、か弱いが芯のある女性を歌った曲。「難しいんですよ。このさっぱりした性格が出ちゃうんです」と気さくな笑顔を見せる。とは言っても、なかなか。話しをしている時の印象と、歌からのイメージは一つではなく幅の広さが感じられる。「(技術的にも人間的にももっと成長して)いろいろな歌を歌っていきたい」プロとしてのポリシーと心構えは経験が長いだけに十分。 お祭りやショーにゲスト出演したり営業でスナックをまわったり、パワフルにスケジュールをこなす。CDジャケットは浅草のスタジオまで行って撮影したが、どう見ても実物の方が素敵に見える。「みんなに言われます。でも実物を見てガッカリよりいいじゃないですか」あくまでも前向きだ。
9月30日の巡礼祭り(マロニエにて午後2時頃)、10月14日川東ひかり祭りにゲスト出演。「ぜひ生の歌を聞いてください」

2001.9.28掲載


 
「古い人間が新しい世界にふみこめました」
83才にしてパソコン初挑戦!
木村  経(つね)さん

小さく聞こえるパソコンの通信音に胸が高鳴る
「この機械に大きな夢を感じます」
メールはこれまで「3回送りました」ニコッと笑顔を見せて、指を3本。83才にしてはじめてパソコンに挑戦した。7月に市で実施したIT講習に参加、周囲に応援してくれる人がいて一週間後にはパソコンを購入した。「平均寿命から考えて何年使えるか、お金をかけてもったいないとも思いましたが、今を楽しもうと決心しました」と穏やかに…でも「なんにもわからないのよ」と大笑い。おおらかな物腰は温かい空気をつくってくれる。
神戸に生まれ女学校に学ぶ。が、その後早くに亡くしたお父様の代わりにとずーっと働いてきた。家電メーカー、老人ホーム…戦後の事務職の職場に女性は少なく「いつもお茶くみをしてましたよ」複式簿記を覚えて、文章の書き方を覚えて、74才まで働いた。職場での自分の位置もふくめ女性の立場の移り変わりをまともに体験している。真面目に前向きに勤めあげた。
今は一人で静かに暮らしている。とは言ってもなかなか忙しい? 毎朝5時に近所のお寺に行って、御経・勤行に参加。お線香をたいて、お茶をいただいて帰ってくる。住職やその家族・仲間とのふれあいがあたたかい。通信教育で般若心経や仏典、俳句などの勉強を。また日記をつけ、新聞を切り抜き、遊びに訪れた場所のパンフレットなどを几帳面にノートへ貼って整理している。
 そして,パソコンと格闘!「説明書を20回ぐらい読んで、やっと解って。そのはしから忘れていくのでがっかりです」とまた満面に笑顔。
今回の取材に「私なんてが」と、終止戸惑っていらした木村さんから言葉をいただいた「若いうちは何しても肥やしになります。無駄なことはありません」

2001.9.21掲載


 
山際かおるの芸名で地域に笑いを届けるアマチュア落語家
安藤 薫さん

「落語を一生懸命覚えて人前で披露させてもらっています」
「座布団に座って頭を下げると…これがやめられないんですよ」落語好きが高じて自分でも演じるようになったのが4年前。その魅力をあらためて聞くのは野暮だった。何がどう? と言うのではなく落語が楽しい。
きっかけは市の老人施設のお年寄の前で、覚えた古典を披露したこと。この発表の機会は、自ら市に相談して得たものだが、その後は交通安全教室、施設慰問、同総会などなど黙っていてもお呼びがかかる。「笑えるもんが他にないんでしょう」と謙虚な言い回しは、いかにも落語家だ。
3年前からは「きちんと勉強しよう」と新聞でみつけたアマチュア落語講座に月2回、東京の蒲田まで通っている。持ちネタはもっぱら古典。大好きな古今亭志ん生さんの得意ネタが多い。テープを何回も聴いて、書きおこして覚える。本を読んで自分のアレンジを加える。車の中で風呂の中で何回もくりかえし声にする。「たくさん練習をして自信をつけないといけません。不安があると舞台であがっちゃって、言葉が出なくなっちゃいます」のんきな笑いは、屈託のない真摯な思いから生まれている。
先日の9月1日に、講座の仲間との発表会を終えたばかり。次は10月9日クの南足柄市交通安全教室で落語をやる予定だ。実は地域活動として13年間、交通安全指導隊員をやっている。そんな関係から「交通安全の話しを楽しく落語を交えて」というリクエストが多い。 本業は広告などを手がけるデザイナーだが「不況でほとんど仕事がありません。兼業だった農業が本業になっちゃってます」と笑いを誘う。夢は交通安全をテーマにしたオリジナルの落語を創って演じること。「お年寄の交通事故が増えているんです」と一瞬顔をくもらす。実現は近そうだ!

2001.9.7掲載


 
ライオンズクラブ330−B地区ガバナー
久津間 康允さん

小田原白梅ライオンズクラブ「21世紀は創造 怖がらずにチャレンジしていきます」
子どもの頃から、いわゆるガキ大将で、ちょっとした有名人だった。自分に与えられたことには猪突猛進、いつも笑顔で前向きなパワーあふれる人だ。
久津間康允さん57才。国際的な奉仕団体・ライオンズクラブ国際協会の330−B地区(神奈川・山梨・伊豆大島)の最高責任者ガバナーにこのたび就任した。約7200人のクラブ員を統括する大役だ。テーマに『新たなる道 奉仕の創造』をあげる。ライオンズクラブと言えば奉仕団体としての財力と動員力は世界一と言っていいだろう。大組織の長としての方向を「金も使う体も使う。企業・行政・市民、私達の力を求めているところとパートナーシップを強くすること、奉仕をしてあげるのではなくさせてもらっていると意識を変えること」と示す。そして「21世紀の最初の年、長期ビジョンにたって挑戦していきます。良い悪いは歴史が証明してくれます」と積極性をみせる。
久津間さんは小田原市久野に本社がある製粉会社の社長。家業を継いだ3代めだが決して順風満帆ではなかった。10人兄弟の7番目、小学校4年の時に先代の父を亡くし、おばあさまとお母さまが苦労して続けるも会社は傾いて…24才の時に一念発起。仕入れ、粉引き、配達、集金、事務処理などなど朝6時から深夜まで「脇目もふらずに」働いて今にいたっている。 当然若者は失敗もある「バカヤロー」とお客さんに怒られたことも「でも今だに深いおつき合いができます」と苦笑。父を早く亡くした分、商売や人付き合いなどは世間から教わったと自認する。 奉仕理念は「一人のためでもいい、どれだけ他人のために費やす時間をもてるかです」。今一番気になる課題の一つに『青少年育成』をあげる。

2001.8.17掲載


 
自転車を楽しむエンジョイハウス 紅一点?!
太田 末喜子(まきこ)さん

本職はOL「自転車のために働いています」
意外にも? 運動オンチで、子どもの頃は自転車に乗ったこともなかった「あの病弱が、どうしたんだ」って、みんなびっくりしてるでしょうね。
『エンジョイハウスサイクルスポーツクラブ』は、会員数45名の地域に根ざしたサイクリングクラブ。家族会員などを除いて実際活動している中で、唯一の女性会員が太田さんだ。毎月第2日曜に自転車ツーリングを楽しんでいる。伊豆下田、三廻部林道、入生田長興山など…風をきるスピード感、景色を眺めながらのんびりペダルをこぐ爽快感、自分の力だけで長い距離を走り峠を越える達成感。自転車には、ちょっとした感動がたくさんあって、仲間とそれを共有できる喜びがある。
今年の5月、御殿場をめざして足柄峠を越えた。「すごい傾斜でした」力をゆるめると後退してしまう、ふらふらしながら肩で息をして足を動かし続けた。「上りがあるから下りがある。苦しいことがあるから、いいことがあるんですね」こんなあたりまえのことを体で感じて、自分の中にしっかり吸収して、一つの自信になって広がった。「今度はこの山を制するぞ〜なんて、男っぽくなっちゃったかな」明るい笑顔に気負いは全く感じられない。男性に混じって普通に走ったらいつも「最後尾」。でも「それぞれの体力と目的に合わせて楽しむ」のが太田さんのエンジョイハウスの方針だ。行き先によってはサポート車がついたり、初心者にはベテランの先輩が世話をやいてくれる。「少ないので女性は特に大切にしてくれますよ」。常に会員募集中、女性の仲間がほしいというのが本音。 誰でも乗れる、こだわるとお金もかかる、たかが自転車されど自転車。
*TEL0465・34・7517エンジョイハウス事務局

2001.7.13掲載


 
 
ピロ−アドバイザー
風間 恵子さん

「体が一番リラックスしなければいけない
睡眠時間にストレスをあたえてませんか?」
「健康こそ地域の財産、ただ売って終わりじゃなくて、ずーっと気持ちよく使ってもらいたい。お客様と長いお付き合いをしていきたい」こんな思いから、今年の3月に日本睡眠科学研究所の講座を受けて、ピローアドバイザーの認定を受けた。
快適な睡眠のためには、寝具、特に枕の役割が大きいと言われている。それも「その人に合っているかが一番」と言葉に力が入る。頭の形などを測定して、腰痛や肩こりの有無、どんな環境で寝ているのか等々を総合的に考えてアドバイスする。
自らも肩こりで片頭痛をともなう程だった。「枕が硬すぎて首に負担がかかっていたんです」これが枕と睡眠について考える、そもそものきっかけとなった。勉強していくうちにいろいろなことが解った。「いびきの原因が枕にある事があるんです」「腰痛の人は硬いふとんがいいと言われていますが、硬すぎると血行が悪くなって、かえってよくない事もあります」さすがに寝具の話しはつきない。「寝ないと人間は生きていけません」生活の重要なポイントを担っている自負がある。
家業は地域に根ざしたふとん屋さん。18年前にサラリーマン家庭から嫁いできた。「人が喜ぶ顔がみたくて」とイキイキと働く。何も買わなくても「近くに来たから」と店に寄ってくれる人がいる。わざわざエプロン1枚を買いに出向いてくれる人がいる。「そういうのがとてもうれしいんです」「人が集まってくる、睡眠の情報ステーションのようなお店になりたい」とも。そして自身も「これからも専門家として極めて、たくさんの笑顔に出会いたい」と、自然体の笑顔は接客のプロだ。
2001.6.29掲載


 
 
2001年度ミス小田原
佐久間 弘枝さん

「お祭りのおみこし、地区のスポーツの大会…
本当に地元に密着して育ちました」
自宅は小田原駅からほど近く、子どもの頃は小田原の街が遊び場だった。休みの日にはお父さんに手を引かれて城址公園へ、夏は御幸の浜で遊んだ。 今年度のミス小田原3人のうち、自分以外の2人は海外での生活経験があって「小田原を客観的に見てますよね。私はそれができないんです」と、思い入れたっぷり。ミス小田原にも「すばらしい環境で自分を育ててくれた大好きな街、小田原の役に何かたちたい」と考えて応募した。
5月の北條五代祭りには、友だちを静岡や東京からたくさん呼んだ。「みんな楽しんでくれて、夏のおまつりにも来たいって言ってくれました」言葉通り、小田原のPRに積極的だ。
現在大学4年生。つい先日、友だち6人で北海道へ行った。「特に計画はたてないで2週間、時には3つぐらいのグループにわかれたりして、それぞれ行きたいところへ行きました」。実はこんな気ままな旅行をよくしているそうだ。国内では数えきれないほどの土地を歩いているが、五色沼や長崎が印象的で、近く京都へ散策に行きたいと考えている。「新しい人に出会ったり、その土地の名産物を食べたり、新しい事にチャレンジできます。感動した事はいっぱいあります」無限の好奇心をどんどんかきたてられ、そして旅をするごとに成長していることだろう。
中学時代は陸上部。小田原市の駅伝大会では区間賞をもらったことも。旅行のためのアルバイトもがんばっている。大学卒業後は「目標があります」。忙しい毎日だが「私の発言一つで小田原のイメージができてしまう」とミス小田原としての自覚は既にしっかりある。
2001.6.15掲載


 
 
世界チャンピオンを狙う!
プロ修斗ライト級
K'zファクトリー
勝田 哲夫さん

「修斗の試合をぜひ生で観戦してください」「すごい事をしてしまった」
プロ修斗ライト級の勝田哲夫さん23才。これまで無敗を誇ってチャンピオンに君臨していたノゲイラ選手(ブラジル)を敗った。5月1日の後楽園ホール…セコンドに付いてた先輩は男泣きして快挙に感動してくれた。
修斗は小さなグローブを付けて戦う総合格闘技。パンチ、キック、投げ、手足の関節しめなどなんでもあり、かつ厳しいルールで管理された競技。「命がけ」の真剣勝負だ。
高校2年から町田にある道場に通ってアマチュアレスリングをはじめた。1年半後に同じ道場で修斗に。大学4年でプロに認定され、卒業後の現在は、インストラクターや建築現場でアルバイトをしながらのプロ修斗。これまでの成績は6勝2敗、2敗はデビュー戦と第3戦。負けた時はもうやめようと思ったが、この挫折感を乗り越えてからは5連勝、今にいたっている。先日のノゲイラ戦はノンタイトル戦、王座に変動はないが、これでタイトル戦を組んでもらえる。チャンピオンへの道が近づいた。
家は導了尊のすぐ近く。「水も空気もうまい、アップダウンがあってトレーニングにも丁度いい」。家族は両親と妹、いつも試合を見にきてくれるが、今でも「就職しろ」と言われるとか。先日の快挙にわきたつ中でも、親からは「はやくやめて就職しなさい」と言われた「調子にのるなよってことですね」と笑顔。今の鍛えぬかれた筋肉からは想像がつかないが、中学までは小柄でガリガリだった。
タイトル戦は早ければ8月か9月にも行なわれる。「1回勝ってもモチベーションを絶対にさげない、相手はもっと強くなっている」と目が輝く。
礼儀正しく気がやさしい。足柄山の金太郎の愛称も出はじめている。
2001.6.1掲載


 
 

▲妻の歌子さんと、現在開催中の個展の会場にて。
「まだまだで、プロの方に見られたら恥ずかしい」と関野さん。200人以上もの人が既におとずれている。5月29日まで、フジカラーMJC富水店2階フォトギャラリーにて。その後6月1日〜6月26日FDIステーション・ザ画像館(ロビンソン前)にて。/TEL0465・37-0807
初めての個展
写真展が開催中
関野 智則さん

車椅子からの視点で撮った写真で、個展を開催中
「この写真を撮った場所には急な坂があって、車椅子を押して行くのがたいへんで」「私もおりて一緒に押しました」と目を合わせて大笑い。とにかく明るいご夫婦だ。
関野智則さん、62才。15年前47才の働き盛りで脳こうそくに倒れ右半身不随に。「とにかく早く社会復帰を」こんな一心でリハビリに取り組み1年後には仕事にもどった。が、3年後に再発、手足に麻痺が残ってしまった。 入院中に病室に持ち込んだのは『カメラ』。元々登山が趣味で、仲間のスナップ写真をよく撮っていた。思いどおりにならない体で「とにかく写真をとりまくった」と当時を思い出す。関野さんの人柄だろう、病院の中だが、写真を撮られることを嫌がる人はいなかった。「撮って」と逆に声がかかり、ベッドのまわりにはなんとなく人が集まってきた。苦しかったけど楽しんだ入院生活だった。
退院して通信講座で本格的に写真を勉強。妻の歌子さんとの二人三脚の撮影歴がスタートした。地元のお祭りやイベントにはほとんど顔を出して、そこに集まる人や雰囲気を撮影する。風景写真もはじめた。写真クラブにも入った。4年前から電動車椅子を使って行動範囲をぐーんと広げ、北海道や京都へも行った。もちろん歌子さんが同行。写真一枚一枚の想い出をしっかり共有している。
「撮影会に参加しても、みんながカメラをかたづける頃に到着して」「人と違う被写体に」と、また大笑い。「私の写真は社会の励みになると言っていただきます。(それもうれしいですが)もっと勉強して、人に感動を与える写真を撮りたい」とまだまだ満足はしていない。
2001.5.25掲載


 
2001年度ミス小田原
河野 絵里香さん

家族、バイト先の先生、みんながよろこんでくれたミス小田原
「小田原のみなさん、一年間よろしくお願いします」
いわゆる帰国子女で、英語のTOEICは840点、好きな洋画は字幕を見ないで楽しめる。素敵な才女がミス小田原になった。
河野絵里香さん、20才の大学3年生。小学5年〜中学1年の3年間、お父さまの仕事の関係で家族でニューヨークへ渡った。学校で日本語が解るのは弟と自分だけ、先生にも言葉が通じない。でも「まわりの人が親切で、ゼスチャーでなんとかなったんです」子どもの柔軟性と持ち前の積極性で、1年ぐらいで英語に不自由しなくなった。お母さま手作りの困った時用カードはずーっと持っていたが、1度も使わなかった。帰国して横浜にある私立の中学校・高校へ。比較的帰国子女の多い学校で、制服もなく自由にのびのびと過ごした。片道1時間半の通学は苦にならなかった。大学は経営学部だが、こちらも入試科目の関係か帰国子女が多いそうだ。
おうような落ち着いた雰囲気と、自分の意見をはっきりという真面目さは、資質と恵まれた環境から培われたものだろう。アメリカで一番学んだことはコミュニケーションのポイント。「伝えたいことがある時、言葉にできなくても言葉がわからなくても、一生懸命に伝えようとすれば絶対に伝わります。英語以前の問題です」経験にうらづけされた自信が光る。
現在小中学生に英会話を教えるアルバイトをしている。そのバイト先の先生のすすめでミス小田原に応募した。小田原は子どもの頃からなじみのある街だけど「知らないことがたくさんあります。勉強してしっかりPRしていきます」
身長は162cmだが、いつも実際より大きくみられる。
2001.5.18掲載


 
2001年度ミス小田原
青山 友子さん

外国から帰って来て、久しぶりに目にした
小田原城に「心がなごみました」
初めての海外旅行先のロサンゼルスで、英語が全く通じなくって「ショックでした」高校3年の夏休み。そして、その夏に「留学しよう」と決めた。家の人には、もちろん? 反対されたが、自分で調べ準備をすすめた。TOEFLは勉強して4回受けた。思ったらすぐに行動に移すタイプだと自らを認める。
そして約3年間、アメリカのオハイオ州に留学、最初の寮生活を経て台湾からの留学生と2人で生活。考え方や風習の違う様々な国の人と過ごした。心がけていたことは?「何があっても驚かない。常識はおいといて、その場その場で考えて、いいと思った事をしていこうと考えてました」細っそりとした外見とはうらはらにシンの強さ、たくましさを感じる。
留学先から帰国する時体調をくずし、しかも一人で心細い飛行機だった。そこで、スチュワーデスさんにとても親切にしてもらった事が印象に残り「スチュワーデスになろう」と思った。今はそのための専門学校へ通っている。
ミス小田原に応募したきっかけは駅のポスターを目にして「自分を磨ける」「様々な方とのコミュニケーションの機会が得られるので、接客に活かせる」と思ったから。「でも、選んでいただいたからには、自分の事よりも、小田原の観光に少しでもお役にたてるようにしっかりやりたい」「まいあがらないように、自分のやるべき事をきちんとできるようにしたい」と引き締まった表情に。そして「私が(3人のミスの中で)一番年上ですし」と笑顔をみせる。
身ぶり手ぶりで大きな目を輝かせて表情豊かに話す。その魅力で、小田原を内外におおいにアピールしてくれることだろう。
2001.4.27掲載


 
螢田に蛍を育む会螢々会会長
星崎良峰さん

「氷の大地に春の陽射しがそそぐような、
蛍にはそんなあたたかさを感じます」
現在は駅名として残されている『螢田』という地名…「蛍が乱舞する田園の美しい地だったそうで、正式には駅の辺りに蓮正寺字螢田という地名がまだ残っています」
古書を読んで自分が住む地の古(いにしえ)を思う「そのわりには蛍が一匹もいないじゃないか」って。『螢田に蛍を育む会』を立ち上げたのが4年前、近所の人や友だちに声をかけて55人でスタートした。活動はいたってシンプル。毎週日曜日に小川を掃除して蛍やその餌となるカワニラが生息しやすい環境を整える。メンバーは働き盛りの中高年や主婦が主。「会社ではいばっている?」人が、地域の小川をあたりまえのようにきれいにしていく。その通称ホタル川で一昨年の時季に蛍がたくさんとんだ。懐かしいあの自然のイリュミネーションに、子どもたちが歓声をあげてはしゃいだ。
「やっててよかった」
そして昨年も蛍の乱舞がみられた。地道な活動が功を奏して、ホタル川では毎年初夏に蛍と出会えるように、と思いきや、なんと県の行なう酒匂川堤拡張工事にホタル川がかかって、消滅することになってしまった……「公共工事はある程度必要なものです。環境問題を総合的に考えて、自分たちだけがよければいいというのはいけません」
大切に育んできたホタル川への愛着はもちろんだが「一つ一つすすめよう」とシンポジウムを開き専門家の話しを聞き、『ホタル川の生態系を、その下流の工事にかからない場所に移す』という結論を出した。自然林をつくる必要があるなど簡単にはいかないが「生態系をつくりたい」という思いが原点にある。
自然林をつくるための植樹事業を一般の人にも参加してもらい4月29日に行なう。県からの助成もとりつけた。気負わず楽しく賢明に、螢々会の活動はつづく。
2001.4.20掲載


 
小田原シルバー大学をこの春卒業
3年間皆勤の82才
谷津倉 保さん

「若さの秘けつ?考えたことありません」
「勉強した知識に魅力をプラスして人に伝えていく」
「80才の手習いです」大きな声で真面目な顔で言って…笑顔をみせた。生涯学習の場として60才以上の人を対象とした小田原市による『おだわらシルバー大学』をこの春卒業した。
谷津倉さんが勉強したのは歴史観光学科。地元の歴史や観光名所などについて学び、卒業するとボランティアとして観光ガイドをする方もいる。二宮金次郎の事を北条五代の事をもっと知りたい、こんな思いがあった「これまで何千回と通った地元の道も、その歴史や逸話を知ると、こんなに素晴らしかったのかって」勉強は新しい発見と感動。その楽しさを目を輝かせて語る。谷津倉さんは3年間120回を皆勤で受講した。
現在82才。小学校を卒業してすぐに家の手伝いとして働いた。同級生で進学する人はいなかった。青春時代は戦争に、そして帰ってきたら「友達はいなくなっていた」。その後、小田原の寺町で農機具販売・土木機材販売の事業を、いわく「金もうけひとすじ」でやってきた。79才まで現役だった。 実はシルバー大学へ入った一番のきっかけは、「親しい友達がほしかった」からだそうだ。共に3年間学び、親友と呼べる仲間が4〜5人みつかった。家族からは「ガンコなおじいちゃんが優しくなった」と言われているとか。
「今の年寄りは幸せです。若い人達が働いてくれるから年金がもらえる。感謝しています」そして「長生きをすれば子どもも年をとってきます。年をとれば親に孝行しようなんて考えてくれる。年寄りの言うことですが、体に気をつけてがんばってください。日本はいい国です。みなさんにお預けします」世の先人としての役割に一区切りつけて、今なお充実した82才の言葉だ。
2001.3.23掲載


 
 
美空ひばりさんの名曲『裏窓』をリリース
歌手 コロムビア所属
入江 摩子さん

「箱根駅伝の中継で写る小田原の街がとても懐かしくて…お正月はいつも見ています」
美空ひばり最後のレコーディング曲が甦った…昨年10月にCDがリリースされた入江摩子さんが歌う『裏窓』がそれ。なかなか歌わせてくれないスーパースターの名曲だ。入江さんは「こんな素晴らしい曲を歌えるのがうれしくって」「プレッシャーもやりがいもあります」と意気込みをみせる。
元々演歌をめざしてレッスンを受けていたが、銀行のポスターガールに選ばれた事をきっかけに、ポップアイドルとして17才でデビュー。当時の芸名は北条みき、戦国時代に小田原を中心に関東一円を治めていた北条氏からとったとか。シングル7枚を出したそうだが、お父様の病気にともなって引退。そして、12年間のブランクの後に演歌歌手入江摩子として再デビューしたのが11年前。小田原市民会館でのその頃のコンサートを覚えている方もいるのでは。
入江さんは20才まで小田原で生活していた。母親・親戚や友だちはいるので時々帰ってくる。その時は国府津の海岸で地引き網をして、捕った白魚を東京の知人にお土産にする。艶やかな姿で歌う一方、アネゴ肌の気っぷのよさも感じられる。
現在、裏窓の全国キャンペーン中。小田原でのコンサートは「近いうちにやりたい」と考えているが、残念ながら今のところ予定はない。入江さんの歌をきくには、まずはCDを買った方がよさそうだ。「中には置いていないお店もあるかもしれませんが、注文してくれればすぐに取り寄せてくれます」地道な歌手活動を続けてきた入江さん。この裏窓が一つの機となってよりメジャーになる可能性は大きい。
*ラジオ日本、火曜深夜0時からの『演歌心のふるさと』に4週に1回レギュラー出演。次回は3月27日の予定。
2001.3.9掲載


 
 
サンフレッチェ広島に入団
清水市立商業3年
河野 淳吾さん

ポジションはディフェンス
めざすは世界のトッププレーヤー
「プロに入ったからと言って自分は変わりません。目標を達成したという気持ちも一切ありません」「満足すると、そこで成長がとまります」ひきしまった表情で、臆することなく言葉が出る。2月1日に入団発表があり、この春からサンフレッチェ広島でJリーガーとしての生活になる。
小学1年生でサッカーをはじめ4年生の時にはプロになろうと考えた。中学は自分で決めてサッカーの名門、東海大第一中に進み3年でレギュラーになって全国大会での優勝を経験した。高校はやはりサッカーで清水市立商業へ。湯河原の家から通うのは無理なので、友だちの家に下宿をした。その高校時代はU(アンダー)17の日本代表に選ばれて、オーストラリア、カタールなど海外での試合も経験した。でも「出場機会が少なくって、悔しい思い出しかありません。本当の日本代表とはいえません」とやはり満足はしていない。
河野さんが今いる静岡県は全国一サッカーが盛んと言っても過言ではない。その地元の有力若手選手ともなれば注目も集まる。スポーツ新聞の静岡版にはたびたび登場して誉められることもあれば、酷評をいただくこともある。その新聞をすべてファイルしているご両親の話しになって「親ばかですよね」と高校生らしい笑顔を見せた。「そのうち新聞の一面トップを飾りますよ」気負いやはったりはなく、自分がトッププロになることを確信している。その陰で地道な心身のトレーニングを重ねていることは、あえて言わない。「地元の人に顔を覚えてもらって、歩いていて声をかけられてサインをして、それが本当のプロですよね。これからです」おおらかさと厳しさを持った18才は、より大きくはばたくにちがいない。
2001.2.9掲載


 
 
元ミス小田原
フリーアナウンサー
宮田 めぐみさん

『明るく元気に』を心がけて爽やかな朝を
届けてくれる小田原っ子は城址公園とひものが大好き
女性の憧れの職業と言われるアナウンサーとして活躍中の宮田めぐみさん。自分が生まれ育ったまち小田原が大好き!
豊川小・鴨宮中学出身で高校から市外へ、大学へは約2時間かけて4年間通った。仕事をはじめてからも「がんばって通った」。時間が不規則なレギュラー番組に就いてから、3年程前に「しかたなく」都会生活になったが「小田原は、とにかく落ち着くんですよ」。
現在、TBSテレビの平日の番組『エクスプレス』で、レポーターとして朝の顔を務める(午前6時〜午前8時30分/担当コーナーは主に水曜・金曜)。早朝番組だけに、起床は午前3時。健康管理だけでも苦労ではないかと想像するが「意外と楽なんですよ」と軽く言われてしまった。いろいろな人から話しを聞いて、それを人に伝えていく今の仕事を「とても楽しくやってます」と、充実感が言葉にあらわれる。
宮田さんは実は1994年度のミス小田原。人前に出るのが苦手だったという宮田さんだが、小田原市観光協会の担当者は、「ミス小田原として活動された1年間で、ずいぶんと成長されましたよ」と当時を振り返る。「夢中だったんです。そんなふうに言ってもらえるとうれしいですね」と宮田さん「考えてみれば初めてテレビに出たのは、ミス小田原として出演したテレビ神奈川でした」「ミスの仲間の友だちは今でも仲良く付き合ってます」とも。ミス小田原の経験は宮田さんの財産の一つとなっているようだ。
故里から中央へはばたいて活躍している方はたくさんいる。宮田さんもその一人として、小田原に何かをもたらしてくれそう…地元としても、いっそうの活躍が楽しみだ。
2001.1.26掲載


 
 
(社)小田原青年会議所 理事長
穂坂 肇さん

JCは達成感・充実感・感動「地域に必要とされる団体でいられるよう頑張ります」
21世紀のスタートとなった今年のスローガンは『共生』、「まちづくりに取り組んでいる各団体と協力して、もちろん市民の方とも一緒に、地域をよりよくしていきたい」と、今年度理事長の穂坂肇さんの熱い思いが込められている。
青年会議所いわゆるJCは、明るい豊かな社会の実現をめざしてまちづくりに取り組む組織。穂坂さんの家業は小田原駅前の土産物屋で、地元に対する思いは自然と培われてきた。遊びざかりの学生時代でも「小田原に帰って来るとほっとしたもんです」と、生まれ育ったまちを心から愛している。手弁当で、すぐには結果が見えにくい地道な作業のJCの活動だが、穂坂さんにとってはあたりまえの事のようだ。
持論の一つに、小田原の城下町としての情緒を大切にして『優しい思いやりのあるまち』をアピールしていきたい、というのがある。「例えば複数の鉄道が乗り入れている小田原駅。慣れない観光客の方は小田急に乗りたいのに間違えてJRの切符を買ってしまうことがあるんです。銀行のATMに案内の人がいるように、駅にも案内をしてくれる人がいるといいですよね」「どんなに機械化が進んでも人間の心づかいには勝てません」とも。まちづくりは人づくりと言われる。
スローガンにあるように、JCだけでなく他団体や子どもを含めた市民を「まきこむ」事業を展開している「市民参加から市民主導に変わる時です」。9月にはまちづくりを考えるフォーラムを開催するが「一般市民の方にも積極的に加わってほしい」と呼びかける。
もちろん毎日忙しい、「家族と従業員に支えられてます」と目を細める。本当の意味での豊かさを模索する21世紀の幕開け。自分たちのまちが大好きな若手集団、青年会議所リーダーの大きな目がいちだんと輝く。
2001.1.19掲載


 
 
この春Jリーガーとして新たなステージに立つ
羽山 拓巳さん

筑波大4年今はサッカーのことで頭がいっぱい「小さな不安と大きな楽しみ…がんばります」
一度やってみたかった、という今風の髪、雄弁ではないが確かなものが少しづつ伝わってくる控えめな口調…期待のホープは一見どこにでもいる22才だ。
羽山拓巳さん、この春筑波大学を卒業し、プロの名門Jリーグのヴェルディ川崎へ入団する。3つ違いのお兄さんの影響でサッカーは小学1年からはじめた。地元の少年団岩原ピンクパンサーズで6年間活躍。小学校卒業時に監督のすすめで、ヴェルディ川崎の下部組織ジュニアユースの入団テストを受け、約50倍の難関を突破して合格。以来ユース、筑波大学、そしてヴェルデイとサッカーエリート街道へ。大きな大会の経験をつみ「メンタルな部分が鍛えられました」と、一方で「期待されていなかった分のびのびできました」とも。
言うまでもなくサッカーが「好き」。中学高校が地元だったため、ヴェルディの練習場へは放課後に約1時間半をかけて通った。帰りは夜の10時から夜中になってしまうこともあったが、6年間ほとんど休みなく続けた。やめようと思ったことは「ない」と言い切る。サッカーの魅力は「ゴールをとることとパスがうまくつながる一瞬の快感」。大学では昨秋、関東大学サッカー一部秋季リーグ優勝に貢献し、最優秀選手にも選ばれた。
ジュニア時代からの同期で今回プロになれたのは羽山さんだけ。厳しい世界で、大きな目標へ向かって一つ一つ着実に階段をのぼっている。憧れの選手は同じ左利きのマラドーナ。ポジションはMF(ミッドフィルダー)。「1年めからレギュラーをねらいます!」今月下旬には寮に入り練習に本格的に参加、プロとしての生活がはじまる。目標の階段はまだまだ続く、羽山さんの視線はもちろん、いつも前を見ている。
2001.1.12掲載


 
 

ヨシさん(右)が弘子さん(左)に送った絵手紙展『93歳の令を楽しむ絵手紙展〜娘へ送った365日』が、1月9日〜12日に小田原郵便局にて開催。「みなさんに見ていただけるものじゃないんですけど」とヨシさん。「私が見てもらいたかったんですよ」と弘子さん。
1年365日 娘さんに毎日 絵手紙を送る
本多 ヨシさん

82才ではじめた絵手紙
10年たって初めての個展を9日から開催
平成11年の6月から平成12年の6月までの1年間、秦野市に住む長女の香坂弘子さんと毎日絵手紙を交換した、本多ヨシさん93才。
絵手紙の先輩弘子さんから声がかかって「うんやろう」と快諾。「1年間続けるのはたいへんなことです。気楽にいいよって言われて、本当に大丈夫かなって、私の方が心配しちゃいました」と弘子さん。でも、それはとりこし苦労だった。絵手紙を描くことが「楽しい」とヨシさん。好きなことを自由に描いて送る…それを毎日受け止めている娘がいる。題材にと魚を釣ってきたり変わった形の野菜を買ってきたり、協力してくれる家族がいつもそばにいる。生まれも育ちも小田原、家業の農業と和裁の内職をずーっとやってきた。孫の成人式の着物は全てヨシさんの手作りだ。子ども6人、孫12人、ひ孫10人。「息子や娘の家族が全部そろっている。それが満足です」と目を細める。
絵手紙は弘子さんの影響ではじめた。82才だった。元々好奇心旺盛なヨシさん、もう年だからとは言わなかった「もっと若かったらな〜」って言ってたそうだ。ヨシさんが好んで描くのは花や果物、野菜など。「生きているものがかわいい」「描きはじめるとその対象に愛情を感じるんです」と屈託がない。
真直ぐに年を重ねた人の笑顔はそれだけでまわりの空気をあたたかくしてくれる。「10年たってしまうとたいしたことないけど、先を考えると1年は長くて大切」。弘子さんと1年間、毎日絵手紙をやりとりしたことは静かな達成感。21世紀を迎えて今年94才「平凡にやってゆければそれが一番幸せです」と優しい。
2001.1.1掲載


 
 
大井町の作陶家
小林牧牛さんとの交流から小田原でも個展を開催
安道礼(アンドレー)さん
フランスコルシカ島出身

日本のお地蔵さんの魅力にとりつかれて
一緒に各地を旅して写真におさめ画像処理
流暢な日本語で自らを「変な外人です」と、笑いとばす。フランス国籍のAndre GARDELLAさん。30年前に来日。外務省の研修所で日本の外交官にフランス語を教えている。登山が趣味で『安全に、山道を礼をもって通る』こんな思いから『安道礼(アンドレー)』と名乗って、親しまれている。
2年前のある朝、突然思い立って鎌倉へ行った。そこで大井町在住の作陶家小林牧牛さんの作品、わらじ地蔵に魅せられる。ユニークな表情、独特な風合い、丸みを帯びたあたたかさ…その出合いは特別な事としか考えられなかった。
鎌倉ではじめて出会って早速「連れて帰ってきた」。作者の小林さんとの交流もはじまり、今では約70のわらじ地蔵を持っている。フランスで2人のお子さんと一緒に見ていた日本のアニメの中にあったお地蔵さんが、印象的だった。登山道でお地蔵さんに会うといつも「心の中であいさつをしていた」。「お地蔵さんは人を導いてくれる不思議な力をもっています。庶民的な優しさを感じます」。
安道礼さんにとって大きな存在のお地蔵さん。「出かけようか? ってたずねると、うん行こう! って返事がきます」八ヶ岳、九州、パリ、リヨン、マダガスカル、お地蔵さんと一緒に世界を旅して、その様子を作品にしている。それは、写真に撮りデジタル処理をして、インクジェットで和紙に画像処理をするという手の込んだもの。実はつい先日まで、小田原駅西口のクラフトえいとで、安道礼さんのその作品展が行なわれていた。今はいくつかが絵はがきになって売られている。本業はもとより来年も地方で個展の予定があるなど、こちらも忙しい。「人間の優しさを求めて」お地蔵さんとの旅は続く。
*2000.12.8号掲載


 
 
うつわ菜の花で個展を開催中
陶芸家三上 亮さん

地元でのはじめての御披露目…「身近において使ってもらいたい」
三上亮さん。北海道出身。大学の工芸科、大学院、大学非常勤助手を経て、今は亡き恩師に誘われて12年前に南足柄市に。少し山に入った所にある窯場、仕事場は近所の人の手を借りながら自分で作った。火のまわりにこだわって窯も自作。日本橋三越本店、青山グリーンギャラリーなどでの個展を年に2〜3回、また、各展覧会への出品。そして、料理雑誌や専門誌でも三上さんの作品はよく目にする。現在40才。粋な好事家として知られる菜の花の店主・高橋台一さんに『根からのやきもの師』といわせるプロの陶芸家だ。
その三上さんの、はじめての地元での個展『三上亮さんの器展』が、うつわ菜の花(小田原市南町)で開催中。10年ぐらい前からあった話しがやっと実現した。鉢類・皿・とっくりなど日常使いの器に焦点を合わせて約100点を出品。素朴な白が印象深い『粉引き』という焼き方の物が中心だ。「20年来やってきた技法の一つで、新しい研究も加わっています」そして「白の色の違い、自分の質感をみてもらいたい」とも。
奥さんと小学生のお子さん2人の4人家族の三上さん。茶碗、きゅうす、皿…日常使っている食器は、すべて自分の作品。土物は使い込んでいくうちに色が変わってくる。「陶芸は実際に使えて、身近に存在できるのも魅力です」。
人が作るものには、その人が表現されてメッセージが少なからず込められる。「こだわってはないけれど、使える器が多い」という三上さんの作品からは、昔ながらの生活の中にあったぬくもりを感じるような気がする。
器展は12月5日まで。入場自由。
*2000.12.1号掲載


 
 

清水帆夏さん(左)と
杉山聖子さん(右)
社会福祉活動で『県知事賞』を受賞した
県立湯河原高等学校生徒会
委 員 長 杉山 聖子さん
副委員長 清水 帆夏(はんな)さん

大人たちに混じっての表彰は「場違いな感じがして」戸惑いも。
それでも「賞となってかえってくるのはうれしい」
「実感がわかない…」2人の率直な感想。湯河原高校の生徒会がこのたび受賞した『県知事賞』は、これまでの先輩たちの長い積み重ねの中で、たまたま自分たちの代で受けた栄誉、と考えている。
それほど同校では、福祉活動が日常の学校生活の中にあるのだろう。大人たちの様々なボランティア団体が多い中、高校生の受賞はあまり例がなかった。「開校当初から、生徒会福祉委員会を中心として、地域のボランティア活動に取り組んでいる」ことが評価された。緑の羽・赤い羽の募金活動、シルバースポーツ大会、障害者の会への参加、また、野球部は老人ホームで暮れに行なわれる餅つき大会の手伝い、バレー部は清掃奉仕などなど、湯河原高校では伝統的にボランティア活動が行なわれている。
福祉委員会の活動を「興味がつきなくて深みにはまる」と杉山さん。清水さんは「今までできなかった体験ができるので楽しい」。そして2人とも「偉い事はしていません」と、気負いはない。 現在3年生。清水さんは「やりがいがある」と国語教師を目指して大学進学。杉山さんは「お年寄りが好き」で介護福祉士を目指して専門学校へ。しっかりとした将来のビジョンをもっている。
ボランティア活動をしていたり、福祉へ進むことに対して、友達から「どうして?」って聞かれてしまうことも。「特別の事って感じで、まだ少し壁を感じます」。これからますます必要な世界「もっと一般的に自然なことにはやくなって欲しいです」委員会の活動で、お年寄りや障害者と向き合って、意外に感じたこと楽しかったこと…しっかりと栄養にしている。
*2000.11.10号掲載


 
 
地道な音楽活動を続けて今年で20年
下津 圭子さん

「これからも模索しながら歌い続けていきます」
下津圭子さん、ご存じの方も多いはずだ。地元を中心にシャンソン歌手として地道な活動を続け、今年で20年になった。
酒匂にあるお寺のお嬢様としてごく普通に育った。中学は酒匂中学、高校も地元で…が、歌劇好きのお姉様の画策? で松竹音楽舞踊学校いわゆるSKDの研修校へ進む。4年めから舞台にあがり、3〜4年して映画へも出演。順調だった芸能界を引退したのは結婚がきっかけだった。
それから10年以上も経て、ふとしたことから再びステージに。下津さん36才、お子さんは小5年3年1年と育ち盛りが3人。今は亡きお父様からの言葉が印象的「子どもがいるのだから芸能界へ戻ろうなんて考えてはいけない。地に足をつけて社会に恩返しをするつもりで歌いなさい」。それから20年経ったのだ。年に3〜4回は主催コンサートを開き、チャリティーコンサートを定期的に行ない、社会福祉協議会等へ寄付を続けた。歌が好きで楽しく充実した日々。
それが20年めを迎えた今年、実は下津さんにとってちょっとタイヘンな年になった。4年前にお母様を2年前にご主人を亡くした精神的な疲れからか、体調をくずし寝込んでしまったのだ。病気とは無縁だと思っていたのに「人間はちょっとしたアクシデントで弱気になるものですね」。
まわりからの励ましや支えで再び立ち上がり、延期していたコンサートをディナーパーティーという形で行なうのが11月17日。会場は湯本富士屋ホテル(一般の方も入場できる)。いっぱいの感謝の気持ちから「みなさんをご招待して歌わせてもらおうと考えていたのですが、それは却ってよくないって言われちゃいました」。これまでの総集編、活動20年の節目、そして少々弱気になっていたけど、その分いろいろな事を得た下津さんの歌は、より多くの人に力を与えることだろう。
「音楽は癒しになります。元気がでますよ」
*2000.11.3号掲載


 
 
全国木のクラフトコンペでみごと大賞を受賞
金指 勝悦さん
(かなざしかつひろ)

「私たちの木工技術をみんなに見てもらいたい」
木のぬくもりが自然に入っている生活を…小田原・箱根地方に古くから息づく木の文化を仲間とともに再生
10月27日〜29日に小田原アリーナで、大々的に行なわれる『木製品フェア2000』。金指勝悦さんは、その木製品フェアの目玉的催しの『全国木のクラフトコンペ』で、みごと大賞を受賞した木工職人さんだ。このコンペは箱根物産連合会によるもの。全国に向けて公募し、審査員は大学教授やデザイナーなど地元以外から専門家を招いて行なった。金指さんは、地元はもちろん北海道や京都などから全部で545点もの木の作品が寄せられた中での大賞受賞だ。
子どもの頃から工作が好きだった。元々家が木工所だったので材料や道具には事欠かない、飛行機をつくってよく遊んだ。高校を卒業して木でテレビやラジオなどの箱を作る仕事をしていたが、約30年前に、と絶えかけた寄木を勉強しようと、先輩や仲間と会をはじめたのが今の金指さんのスタートだった。古典的な柄や製品を踏襲しながらも、独自の新しい柄や作品も発表していった。1985年全国伝統的工芸品展通産局長賞、1997年全国こけしコンクール文部大臣奨励賞などをはじめ、これまでに受賞した作品は数えきれない。
今回の受賞作品は食器のセットで山路模様の器シリーズ。「シンプルでちょっと新鮮味がないんですよ。一緒に出展した作品で他に自信作があったんですけどね」とは、ご本人の言葉。率直な職人らしい。
「木工屋なんて人気のない仕事だった」と当時を振り返る。でも「この道に入ってよかった」。小学校5年〜3才まで4人の子どもがいるが「パパと一緒の仕事がしたい」と言うそうだ。「子どものうちはもっと大きい夢をもて、って言ってるんですけどね」と満面の笑顔。
*金指さんの作品をはじめコンペの入賞作品は、木製品フェアの会場で展示販売される。
*2000.10.13号掲載


 
 
シドニーパラリンピックにアーチェリーで出場
磯崎 直美さん

「私はまわりの環境や指導者に恵まれていたのでここまでこれたと思います」
「今のレベルではちょっと厳しいけれど、何かハプニングでもあれば、メダルのチャンスもあるかな」と笑顔をみせる。
予想以上の盛り上がりをみせたスポーツの祭典、シドニーオリンピックだが、その後を受けて同じく熱戦が期待される、シドニーパラリンピックが10月18日に開幕する。磯崎直美さんは、そのアーチェリーの日本代表選手。年々盛んになる障害のある人の競技会の中で、厳しい予選を経てその座をつかんだ。
転落事故で頚髄(けいつい)損傷、四肢に障害が残ってしまったのは8年前。それまでは女子野球でならしていた。その後、福祉施設のパンフレットでアーチェリーのことを知り、「リハビリになるかな」と軽い気持ちで見学に行って、やめられなくなった。
その1年後95年の福島身障国体で優勝。翌年の広島国体では一般で参加するが惨敗。集中力で地道に点数を重ねていく競技は、技術はもちろんのことメンタルな部分も大きく作用する。磯崎さんは「はじめた頃よりも今の方が、いろいろな面でキツイです。魔物に取りつかれたのかな」とまた笑顔。96年に「ぽ〜んと出した」自己記録は、昨年やっと更新できた。本当の強さを身につけた、と言っていいだろう。
今回日本からパラリンピックに出場するのは、それぞれに障害がある151人。この数字をどうとらえるか「障害者にとってボランティアの存在は不可欠です。外に出たくても出られない方がたくさんいることをわかって欲しい」アーチェリーの話しの時とはまた違った目の輝きをみせる。
北海道出身、結婚して小田原へ。コーチでもあるご主人と2人3脚でここまで来た。「心身生活全ての支えです」もちろん一緒にシドニーへ行く。「自分のベストをきちっとだせるように頑張れ」と言ってくれている。
*2000.10.6号掲載


 
6才の息子にガンを告知
その闘病記録をこのたび出版
森下 純子さん

「親は病む子に対して、周りが何を言おうと、自分のしてやれることで守ってやるしかないのです(本文より)」
「子は親を選んで生まれてくると思っています」森下純子さんは、このたび『ママでなくてよかったよ 小児ガンで逝った八歳−498日間の闘い』を比良出版より出版。小さな子どもへのガン告知について、一石を投じる。 森下さんは、いわゆるシングルマザーだった。一人息子の重信くんの病気が見つかったのは、平成5年、小学1年生の秋。母と子2人の闘病生活はここからスタートした。病気は横紋筋肉腫。ガン細胞が骨髄にも入り込み、かなり厳しい状況だ。検査、抗ガン剤治療、手術、放射線治療、大人でもやけを起こして逃げ出してしまいたくなるぐらいの大変な治療を、重信くんは最後までがんばった。それを支え見守りつづける森下さん。時には逆に重信くんに励まされたり…その一部始終が記されているのが、この本だ。理論的に冷静につづられている。森下さんと重信くんの絆の深さが伝わってくる。「入院生活は楽しいこともありましたよ。シゲは神様がくれた試練ですね」と森下さん。自分は重信くんから母親として選ばれたと思っている。「生まれ変わったら、またママの子どもになってくる」これは重信くんの生前の言葉だ。
ガンの告知は、重信くんに問い詰められて『お互いに真剣勝負』で向き合って話した。泣きながらも「ママ教えてくれてありがとう」と重信くんは言ったそうだ。その後も森下さんは、嘘やごまかしなく病状を伝えた。命は本人のものだから。
森下さんは今「日本脱出」を計画している。そこで何を? の質問には「ムフフ」といたずらっぽく笑う。そして、「もし大金持ちになったら、子どものホスピスをつくりたい」とも。病気の親子が100%になれる時間がもてるように、その時間が、かけがえのない事は身をもって知っている。
★『ママでなくてよかったよ』は伊勢治書店などで発売中。
*2000.9.22号掲載
 
 
 

小田原商工会議所 青年部会長
鈴木 悌介さん

小田原を全国的にPRするチャンス!来年の全国商工会議所青年部全国大会を開催
ご存じかまぼこの老舗鈴廣の名物副社長、鈴木悌介さん。平成12年13年度は小田原商工会議所青年部の会長でもある。
商工会議所と言えば全国的な組織。青年部も同じで、全国商工会議所青年部連合会は389の青年部と約3万人の会員がいる。その来年の全国大会(平成13年11月開催)が、なんと小田原で行なわれることになった。4500〜5000人が街を訪れ、食事をし宿泊し大会に参加する。小田原箱根地域への経済効果はおおいに期待できるし、社会の第一線で活躍している若い経営者たちは街になんらかの影響をあたえてくれるはずだ。「全国大会を小田原へ誘致しようという話しは、以前からありました。先輩たちの積み重ねで実現できたことです」鈴木さんは大会会長でもある。
この大手柄とも言える全国大会誘致。しかし、この大会が成功するかどうかは今後の鈴木さんをはじめ青年部にかかっている。定期的に打ち合わせをして「年内に骨格、春にはきちんとした企画をまとめます」青写真はできている。
鈴木さんは9年前に仕事で行っていたアメリカから帰ってきて今の生活に。小田原は居心地がいい「頭まで(どっぷり)つからないように気をつけないと」と、いたずらっぽく笑う。「コップの水がもう半分しかないと考えるか、まだ半分もあると考えるか、よく使われる例えですが、事実をどうとらえるかで、次の自分のアクションが違ってきますよね」「今の状況に感謝しています。お金がないとか人がいないとか言わないで、何があるかを考えます」
小田原の青年部はまとまっていて活動も積極的。小田原にはアピールする所もたくさんある。若きリーダーたちの活躍に期待がかかる。
*2000.9.8号掲載
 
 
 

ボランティアで松田町社協に協力 毎年お年寄りにおいしい食事を提供
佐藤 俊(たかし)さん
富士屋ホテル受託事業所 料理長

「一般の方々と和気あいあいと仕事をするのも勉強、おいしかったって言ってもらえるようにしますよ」
肩書きは料理長だけど、みんなからは親方と呼ばれている。福島県の農家の長男に生まれ、子どもの頃は「学校にも行かずに、山でわらびをとったり、川で魚をとったりしていた」そうだ。そして自分でとってきた物を、煮て焼いて調理して近所に配った。「ありがとう」って喜んでくれるのがうれしかった。19才で板前として弟子入り。以来技を磨きながら、調理師会を通じて腕一本で千葉、東京とわたり歩いた。箱根に来て富士屋ホテルの料理長として落ち着いたのが約30年前。「学問はないけど、手に職があるから、いつでも食べていける安心はありました」
佐藤さんが毎年手伝っている松田町社会福祉協議会の『松田町おとしよりサマー舌鼓の会』は、独り暮らしのお年寄りに集まってもらい、楽しい時を過ごしてもらおうというもの。今年で3回めとなるが、町のお年寄りの夏の楽しみとして、もはや恒例行事となっている。松田社協のスタッフが知り合いを通じて「外出することも少ない高齢者に、一流ホテルの味を楽しんでもらえたら…」と富士屋ホテルにお願いに来た。そういう事なら、と担当者は快諾。迷うことなく「親方なら安心して任せられる」と佐藤さんを指名した。この舌鼓の会、今年は8月28日に行なわれる。参加者は約100人の予定。調理はボランティアの方々と一緒に、会場となる町の福祉センターで行なうが、メニューを考え下ごしらえをし、当日の朝7時ぐらいには出向く。
この毎年のボランティアを「人生の財産」と言う佐藤さん。現在66才、もう定年を迎えている年だが、会社が離してくれない。「長年やっているからいいっていうもんでもないんです」培ってきた腕をなおも向上させようと、穏やかな心意気は衰えることない。
*2000.8.18号掲載
 
 
 

昨年の『えっさホイおどり』ではチームがみごと優勝!
河内 康子さん
ジャズダンスインストラクター

「小田原はのんびりしていてあたたかい来るといつもホッとします」
幼児から50才代の大人まで、まさに老若男女が舞台で一つになって観客をわかす…ODAWARAえっさホイおどりは、猿子という鳴り物を手に、小田原縁りの童謡『おさるのかごや』をベースにした曲にのって、自由に振り付けをして踊る。小田原ちょうちん夏まつりのメインステージや街で、その熱気あふれるパフォーマンスが披露される。
ジャズダンスインストラクターの河内康子さんは、昨年、このえっさホイおどりに自分の教室の生徒らを率いて参加した。曲調や振り付けなども、もちろん河内さんが考えた。総勢約50人のバラエティーにとんだ面々。それぞれに仕事や生活がありみんな忙しいはずなのだが、土日はほとんど集まって練習をした。河内さんが「ちょっとヘソを曲げて作った」と言うヒップポップ系の曲や振りの魅力も充分。そしてなによりダンスは一回その楽しさを体験してしまうとやめられない。いわく「みんな菌におかされたように熱中しました」。
もちろん今年(7月29日・30日)も参加する。今回のチームは約70人。河内さんが定期的に勉強に行っているニューヨークで得たものを加えた新しい踊りを見せてくれるとか? 「タネは明かしませんよ」と気さくに笑顔をみせる。本番まであと10日ほど。全員の気持ちが一つになると、それは見ている人にも伝わる。「チームワークはバッチリです」と踊る方も見る方も楽しみだ。
インストラクターである一方、現役のダンサーとしても活躍する河内さんは、自身の発表会、勉強とダンスを中心に忙しい毎日。でも「休みはない方がいいですね。かえって疲れちゃいます」と行動派だ。週4回小田原での教室を持つが住まいは茅ヶ崎。しかし今はえっさホイの準備もあり、いつも小田原にいる。生徒には「小田原に住んじゃえばいいのに」なんて言われているのだ。
*2000.7.21号掲載
 
 
 

小田原伝統工芸鋳物研究会代表
県立小田原城北工業高校教諭
上島 国澄さん

小田原の古きよき文化をまもる…「技術はある。それを伝えていく施設がほしい」
小田原鋳物をご存じだろうか? 金属を溶かし型に流し込んで製品を作る鋳物業。その鋳物の歴史と高い技術が、小田原の文化として地道に受け継がれてきている。古くは北条五代の日用品や軍需品から、近代に入っては国会議事堂で議長が使う振鈴、世界2位のシェアを占めたシンバル、黒沢明監督が音にこだわって映画の中に採用したという風鈴などなど…あげればきりがない程、小田原鋳物は各方面で高い評価を受け親しまれている。しかし現在、その技術者としては柏木さんという方がいるのみだ。
その「柏木の鋳物に惚れた」というのが上島さん。工業高校の先生をしながらコンピューターを使った図面づくりや加工など、いわゆる最先端技術の研究をしていた。その過程で小田原鋳物の柏木さんに出会った。人間の技や伝承の知恵で作りだす精巧な製品に「すごく感動した」そして「これだけの歴史ある素晴しいものは、絶対に継承して残して行かなければいけない」と立ち上げたのが小田原伝統工芸鋳物研究会。5年ほど前だった。
以来上島さんの情熱はとどまるどころか高まるばかり。広く知ってもらおうと約一年で『炎の匠・小田原鋳物』という本を書き上げ発行。研究して新しく得た事実や資料も盛り込んだ。自らが顧問を務める高校の新機械技術部では、小田原鋳物の風鈴をたくさん制作し、一昨年の国体で選手に配るなどして話題になった。天命釜の復元はつい今春のこと。そして今、上島さんは小田原鋳物に市民が日常的に自由にふれることができる施設づくりを、行政らにはたらきかけている。風鈴を作っていると運動部の生徒が手伝っていく。生徒からは『鋳物先生』と呼ばれているとか。研究者ならではのパワーは地味だけど確実で真直ぐだ。
*2000.7.7号掲載
 
 
 

小田原ちょうちん制作 ボランティアの会 会長
飯塚 正浩さん

これまでに作ったちょうちんは数えきれない!
「理詰めの世の中くだらないこと? を一生 懸命にやる人が少なくなってきましたね」
@ひご(ほね)の部分が独特の作りになっていて、コンパクトに懐中できるA角ひごで糊づきが強く丈夫B道了山の木材を材料としていて妖怪魔除けになる…これが小田原ちょうちんの三徳。当時の最先端の技術と知恵を駆使して作られた。値段も手頃だったため、ものすごく普及し、その昔、東海道を旅する人は好んで携帯したという。
飯塚正浩さんは、この堤灯にはまった。知れば知るほど巧妙な創造性や趣き、奥深さに感心させられ「たいしたもんです。これほど文化的な要素の高い道具はありませんよ」と目を細める。
飯塚さんが会長を務める『小田原ちょうちん制作ボランティアの会』は、この小田原の文化遺産を広く伝えて行こうと、子どもや一般に作り方を教えている。現在の会員は63人。5月から7月のシーズンにかけて、週に2〜3回は学校や会場をまわる。そして、毎年7月下旬に小田原城址公園周辺で行なわれる『あかりの祭典・小田原ちょうちん夏まつり』の会場に、この飯塚さんたちの指導のもとにつくられた堤灯が一堂に飾られるのだ。「ずら〜っと並んでいる堤灯を前にすると、いろいろ思い出します。バックにお城があって、お堀の水に堤灯の灯りが映える…ものすごい情緒です」
約10年前、小学生だった娘さんのちょうちん作りに、付き添っていったのがきっかけで、今に至っている。その娘さんも20才を過ぎ、堤灯へののめり込みももはやお父さんだけの世界に。お祭りに向けて「時間さえあればちょうちん作り」という飯塚さん。「みんな何やってんだろって思ってますね」またまた笑顔、楽しくってしょうがない。
*2000.6.23号掲載
 
 
 

西湘地区ホタルを守る会 会長
杉田 栄作さん

「蛍が出るところがわかっているので、この時期は毎日のように見に行きます」
70才、子どもの頃は家の中で蛍のほのかな光を目にすることもあった。生まれも育ちも今住んでいる所と同じ南足柄市の雨坪だが、少年時代の故郷のイメージはいつまでも記憶からはなれない。
中高の数学の先生だった。10年前に退職して、やろうと思ったのが「川に魚をふやす」「野にやまゆりをふやす」そして「蛍をふやす」だった。家の近くの川を掃除し、蛍の餌になるカワニラを知り合いからもらってきて、川にまいた。みごとに蛍が舞った年には、毎晩見に来る地域の人が絶えなかった。蛍の生育は環境や天候に大きく左右されてしまう。それでも魅力充分。群れをなして舞う情景はみごとで「ここの土手からの蛍がきれいなんです」と声をはずませる。
自家の田んぼのまわりにやまゆりを咲かせて、近所の人たちの目を楽しませる。趣味でやっている農業では、できるだけ農薬を使わない「蛍をやっていると環境問題にも敏感になるのでは?」の問いに「関係ないよ、自分たち人間の生活のためだよ」と軽く言われてしまった。気負いなく純粋に自然を愛している。
西湘地区ホタルを守る会は、蛍の保護を活動としている個人35人・団体10からなる連合体。研究会を開いて、お互いに得た知識やノウハウを共有し、総会で交流をもつなどしている。
「会長と言っても、前の方がしっかりしていたし、今もみんながよくやってくれるんで、特になにってこともないんですよ」と笑顔。地域の盆栽の会の会長、福祉協議会の役員、自治会の役員…人柄から様々な役を頼まれ引き受けている。
一昨年200匹、昨年4匹…さて、杉田さんが大切にしている川に今年はどれくらいの蛍が姿をみせてくれるか。
*2000.6.9号掲載
 
 
 

小田原地域育林隊隊長
原田 禦(まもる)さん

おおらかさと細やかさが同居…人一倍の責任感で山のボランティアたちをまとめる
約9年前、新聞で見つけた『森林づくりボランティア募集』の小さな記事…さんざん迷って勇気を出して電話をかけてみた。原田さんと育林との出会いだった。
森林はみんなの財産。減らさないことと同時に、人間が手を加えて保つことが大切。植林後の苗木は辺りの草刈りをまめにやらないと草に負けて育たなくなってしまうし、ある程度大きくなったら枝打ちも必要だ。
原田さんたち育林隊は県のバックアップでできた山仕事にはまった? 人たち20人からなるボランティア団体。休みの日に早起きをして山の作業をするために集合する。遠く三浦市から来ている人も。指導や依頼は小田原市森林組合から受ける。「枝一つ切るのにも位置や切り方、いろいろあります」これが完璧というものがつかみにくく、しかも結果が出るのはだいぶ先「少しずつわかってきただけに、怖さも感じるようになりました」複合要素が左右する経験と技術が必要な世界だ。きれいに枝打ちできて、日が差し込んできた山は無条件に気持ちがいい、木登りだって楽しい、緑(自然)の中でふと静寂と孤独を感じた時の安息感は何事にもかえがたい。
3年前にサラリーマンを定年、仕事は機械の設計だった。育林隊の仕事以外にも他の森林ボランティアに参加したり、仲間の作業小屋へ行き仕事を見つけては体を動かしたり。昨年は林業のプロの仕事も手伝った。知り合いに頼まれてへちまの棚を作ったり、植木の剪定をしたりもする。日焼けした肌はもうすっかり山仕事の男。木の話しになるとひときわ目が輝き、尽きることない。そして「小田原の山は相当の財産をかかえています。まだまだやらなきゃいけない山がいっぱいあります」酒好きの62才、家でのんびりしていられない。
*2000.6.2号掲載

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