小田原城さんぽ 2017年06月09日号

小田原城さんぽ [175] 荻窪仕寄遺構(おぎくぼしよせいこう)

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=小田原城総構まであと三〇〇米!=

仕寄とはシヨセまたはシヨリとも云った。戦国時代に敵地に迫るとき、例えば眞竹の束などを楯の代わりにかざしながら肉迫し、この竹把(ちくば)が一列に並べばその位置までは戦線が前進したことになる。そこでその時「仕寄をつけた」などと云う。
平成元年に荻窪に関東学院大学の建設する計画に先立ち、一帯の発掘調査が行われ、構内の小丘の上部をめぐって鉢巻状の空堀が発掘された。小田原城お鐘の台総構の空堀からは、およそ三〇〇米の至近距離である。その空堀は写眞のように位置と幅は現在も表面標示されている。
さらにこの小丘の北側に平行して二條の縦掘が検出され、当時私はこれも併せて天正十八年秀吉軍の包囲作戦の、仕寄遺構であるとした。二条の縦堀は北条軍からは全く見えず、鉢巻の空堀に敵兵が入れば、これも全く小田原がたからは射撃できない。これを構築したのは羽柴秀次か弟の秀勝であったと思われる。
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(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2017年06月09日号