2018年01月01日号 西さがみ・路傍の花

西さがみ・路傍の花 [497] スイセン -ひがんばな科-

robo_no_hanaP-497_suisen01▲金盞銀台という花

水仙と書くがこれは中国における呼び名である。学名はナルキッスス・タゼッタだが、属名のナルキッススは伝説の美少年の名に因むと、一般には信じられている。しかし水仙に含まれるアルカロイドに昏睡作用があり、水に映して自己陶酔する話と薬としての昏睡効果と、これのどちらが先かはまだよく分らないのである。
つぎに種名のタゼッタは、地中海沿岸における水仙の古名で、このように水仙の分布の主帯は地中海周辺にある。そこからずっと飛び離れて中国にも分布し、これは植物の隔離分布の著るしい例だ。
日本の水仙は当然中国から入ったものと考えられる。しかし万葉集はじめ源氏物語・枕草子などの王朝文学には登場しない。やがて室町時代に入って、下学集(かがくしゅう)(一四四四年)や尺素往来(せきそおうらい)(一四五〇年)に、はじめてその名が出てくるばかりである。
京の人が水仙を知ったのは、文明一九年(一四八七年)の二月に、今も水仙の群生する越前岬に近い妙法寺から、足利將軍家にその花が届けられ、これが最初であったかと思われる。
いわゆる茶会が盛行するのは天文・永禄・元亀・天正の頃だが、その頃の茶会記を調べると、水仙はすでにしきりに茶席に生けられている。越前岬から將軍家へ届いた時から、わずか半世紀の後だ。
当時の茶席では最初水仙と呼んでいたが、天正三年(一五七五年)頃から名を変えて金盞銀台(きんせんぎんだい)になり一時この名が流行する。花を見ると、白色で六箇の花被片(花弁状)の上に、黄色の副花冠がつき、まさに銀製の盃台の上に黄金の酒盃が乗っていてまことにめでたい。
日本で水仙群落の名所と云えばみな海岸で、そこでは水仙漂着伝説が語られる。室町時代に人によって中国から持込まれたのは薬用としてであろうが、それより早く海岸の住民は水仙を知っていたのであろうか-。

robo_no_hanaP-497_suisen02▲越前岬のスイセン群落

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