2018年01月05日号 小田原城さんぽ

小田原城さんぽ [181] 東京電力地下遺構

2020/04/08

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=三列に並ぶ小田原城三の丸の外濠=

北條氏時代の永禄一二年(一五六九)、小田原城へ武田信玄の大軍が来襲した。この時小田原城は篭城に徹したので、武田軍は城下に放火して風祭の丸山に旗を立てた。
当時の小田原城は現在の二の丸の範囲がほぼ城地と考えられるので、万一武田軍が水之尾丘陵から小峯伝いに攻め込んだとしたら、名だたる騎馬軍団だから防戦の仕様もない。
幸いに武田軍は退去したが、北条氏はこの直後に歳末であるにもかかわらず全領内に号令して、城の普請工事に着手する。江戸時代の呼び名で云うと、それまでの二の丸の外堀のさらに外側に、城地全域を含む三の丸の外堀を構築したのである。
それを城の東部で見ると、小田原郵便局から大手門跡を経て東京電力の南側まで、この間の空堀もそれで、郵便局も東電も、実はこの空堀の中に建っている。郵便局の敷地が直角なのは、三ノ丸堀が直角に曲って、幸田口門跡に向うからである。
北条氏滅亡後、家康の家臣大久保忠世・忠隣父子が小田原城主となる。この時代に大手門周辺には北条時代外堀の内壁の部分に玉石積の石垣が新設された。海岸や河原から運んだ丸石を積むので、
崩壊しやすい初期的な石垣だが、それだけに石垣の変遷を示す貴重な遺構となっている。
つぎに稻葉氏時代に大久保時代石垣よりさらに内側に、大型の切石による近世石垣が積まれた。こうして現在の東電地下とその隣接地には、小田原城の発展を物語る三種類の城堀が、並んで埋藏保存されている。写眞は現在小田原市郷土文化館に展示されている、発掘調査当時の模型だ。
大手門跡からここ東電にかけての範囲は、江戸城で云うと皇居前広場の位置に相当し、今後の小田原城観光の基地として重要である。
市民ホールなど市民の便宜施設は、他に土地を選ぶべきであろう。

(写真)小田原市郷土文化館に展示されている「小田原城三の丸堀石垣模型」(縮尺1/30)。手前から慶長期(1600年頃)の石垣、寛永期(1630年頃)の石垣、現在の地表面となっている。

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(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

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