小田原城さんぽ 2018年11月30日号

小田原城さんぽ [191] 早川の木地挽(きじひき)

2020/06/26

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=ろくろで食器を作る職業集団遺跡=

廻転する丸太の先端に横断した木片を取りつけ、それにノミを当てながら椀や盆を削り出す。これを専業にしていた人々をろくろ または木地師(きじし)と呼ぶ。瀬戸物が普及する以前は、この椀と盆が食器だったのである。
早川の集落はその南端に紀伊神社があり、祭神の惟喬(これたか)親王は右の木地師集団の祖神とされる。明治まで早川の婦人たちは頭上に物をのせて運搬していて、県の作った『早川村誌』はこれを親王らが連れてきた官女らの、例えば大原女(おはらめ)の風習と云う。しかし私はこれに反対して、海上の三宅島などにも同じ風習があるから、汎相模湾文化のひとつと考えている。
惟喬親王の家臣に加藤家・小倉家があり、早川には今もこの両家は少くない。紀伊神社とは反対に集落の北端の地を「木地挽」という。そう云えば真鶴の貴船神社も幕末までは木の宮で、来宮の来宮神社もみな本来は木地挽の神様であった。
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(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2018年11月30日号