小田原城さんぽ 2019年12月27日号

小田原城さんぽ [202] 小田原城『お鐘の台』先端部

2020/07/08

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=小田原城の最西端そして最髙地点=

箱根の山裾が東方に走って、足柄平野に尽きようとするその末端の台地を利用して、北条氏時代小田原城は展開していた。写眞の丘は小田原市西部の板橋の背後に位置し、よく知られた板橋地藏尊の裏山と云ったら納得頂けるだろうか。
天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の大軍が小田原に来攻した時、これを迎撃する目的で北条氏は最近よく知られるようになった大外郭を構築する。写眞の丘をお鐘の台、または香林寺山と呼ぶが、この写眞を撮った場所はすでに豊臣軍の包囲線の最前線で、浮田中納言秀家の持場であった。
攻守双方毎日対峙している間顔見知りになるのは自然の成り行きで、秀家は北条方の北条氏房に矢留めを乞い、酒三荷に鯛を贈って降伏を勧誘している。写眞の丘は標髙一二〇米、秀家本陣は現在も水之尾天守と呼ばれる場所で、その標髙は一五四米を測る台地である。
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(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2019年12月27日号