小田原城さんぽ 2020年04月10日号

小田原城さんぽ [204] 海藏寺の堀秀政供養塔

2020/07/08

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=行方不明のその墓は石造五輪塔か?=

秀吉が小田原北条氏の征討軍二二万の総指揮をとった本陣は石垣山一夜城であった。その秀吉の前衛を守備したのが堀秀政で、若冠三三才で越前北之庄一八万石の大守だから、秀吉の信頼の深さが推察されるであろう。
ところが秀政はここ早川の地で陣歿する。墓は石垣山東麓の海藏寺にあるとされてきたが、現実にはこの地には見ない。従来四基の石造宝篋印塔が一列に並んでいて、それを漠然と秀政墓と呼んできたようである。
四基とも拓本をとって銘文を読んだ結果、北端の一基のみが秀政三三回忌供養塔で、彼の法名光岳道哲を彫り元和八年壬戌八月持正日の日付まで読める。海藏寺周辺に他に秀政墓は現存しないが、ただ明治一八年の皇国地誌早川村誌には境内西北隅の丘上にある石造五輪塔がそれで、髙さ四尺七寸五分もあると記す。明治以降に姿を消した訳だが、法名も刻まれているので、まだ探索する余地はあろう。
【写真】堀秀政供養塔(右端)

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(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2020年04月10日号