小田原城さんぽ 2021年10月29日号

小田原城さんぽ [215] 北条時代三ノ丸外郭

=天正期大土塁と米軍機による被爆痕=

秀吉の大軍を迎撃する目的で、小田原城を取り巻いて全長一二粁内外の土塁と空堀が構築された。天正一五年(一五八七)前後の
成立だから、すでに四三〇年余の昔になる。小田原では大外郭と呼び一般には総構と云われるのがこれである。
この雄偉な遺構は山地には比較的によく保存されているが、低地では江戸時代から改変された場所が多い。その中でここ蓮上院の
裏手の土塁はよく原形を保ち、土塁の髙さ六米余、敷幅七米余の偉容を今に伝えている。そしてその外側一帯は澁取と呼ばれる湿
地でそれが天然の要害とされていたが、中途から水田の造成が行われ今は澁取川に整理された。
写眞はその蓮上院の裏手土塁だが摺鉢状の凹地は弾痕だ。昭和二〇年の終戦の直前の八月一三日午前八時半頃、この付近も米軍機
による空襲を受け、三〇名ほどの犠牲者を出した。その着弾の弾痕の一つが、この摺鉢である。

(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2021年10月29日号