小田原城さんぽ 2017年01月13日号

小田原城さんぽ [169] 堀秀政供養塔

2017/01/13

=墓石はいまいづこ=

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天正一八年(一五九〇)秀吉の小田原攻めには、二二万の大軍が動員された。そしてその総本陣の一夜城の前衛に布陣して、左構えの総大將に任ぜられていたのが、越前北之庄一八万余石の青年武將堀秀政である。これだけ見ても、いかに秀吉の信任が厚かったが知られる。
しかし秀政はこの陣中で病没する。三八才の若さであった。墓は早川海藏寺に営まれたらしく、彼の法名海藏寺殿広(光)岳道哲大居士がそれを物語る。
小田原でも久しく秀政墓はこの寺にあるとされてきたが、さて山内を調べてみても無い。僅かに写眞の四基の石造宝篋印塔のうちの右端一基が、秀政三三回忌の供養塔で、元和八年(一六二二)の建立が知られるのみだ。
明治一八年の『皇国地誌早川村誌』は、秀政墓は宝篋印塔ではなく石造五輪塔で、髙さはおよそ一.四五米と記している。法名まで彫ってあるというが、その墓、果たしていまいづこにかある?。
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(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2017年01月13日号