小田原城さんぽ 2022年03月04日号

小田原城さんぽ [218] 岩槻台


=岩槻城主太田氏房の陣場伝承地=

天正一八年(一五九〇)秀吉軍の来攻に際して、小田原城大外郭のうち井細田口・久野口・荻窪口の範囲を守備したのは岩槻城主の太田氏房で、一説に総勢は一万二千人程と考えられている。
そしてこの戦線の中で最高地点はここ岩槻台で、位置は小田原駅西口の北方の大稲荷神社の背後の小丘、北側直下には久野口に比定される遺構が見える。
いまひとつ岩槻台は「谷津山天守」とも呼ばれてきた。天守閣ではなくて矢倉の一種を、北条時代小田原では「殿守」と呼んだらしい。他にも「水之尾天守」などの呼び名もあった。
たとえば三浦浄心の『北条五代記』には、「所々の角々には殿主を立てをき、白壁は天にかがやき」と云う。白壁は後年の記憶が過剰になったかと思うが、外郭にこのような矢倉が一定の間隔で建てられたことは、現在も大外郭を歩くと思い合わされる場所が点在している。


(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2022年03月04日号