小田原城さんぽ 2022年04月29日号

小田原城さんぽ [219] 上幸田(うわこうだ)

=上幸田・下幸田そして薮幸田=

小田原城は北条時代中期に、越後の上杉氏ついで甲斐の武田氏から攻撃された。当時の大手門は「四ツ門」と呼ばれ、市営弓道場への入口の付近である。
四ツ門は三ノ丸外郭が成立すると位置を前進させ、その地は元禄一〇年(一六九七)に幸田口門と改称された。そしてその門前から北へ直進して錦通りまでの道路の両側が、ほぼ上幸田の範囲である。
これに対してその東隣の直線つまりダイヤ街商店会から小林病院前の道路の両側が下幸田(したこうだ)で、小田原駅前のあさひ・ちんりう付近から裏の二ノ丸の空堀の際までは薮幸田(やぶこうだ)である。
北条氏家臣に幸田与三・大藏丞・源三郎などがいて虎印判状の奉者になっている。恐らくその屋敷がこれら幸田の何処かにあったものと思われる。山角町(やまかくちょう)・安斎町(あんさいちょう)・林角(りんがく)など、人名に因む例が少くないからである。
また幸田は神田と同義で、神社一年の灯明料に宛てられた田圃と思われる。神戸(かんべ)をこうべと読む例も参考になるであろう。

(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2022年04月29日号