小田原城さんぽ 2017年04月21日号

小田原城さんぽ [173] 旧南小田原橋髙欄(親柱)

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=江戸開発に従事した小田原出身者の遺跡=

前回、まだ葦原ばかりが展開している江戸の地に、江戸城とその城下町の建設に貢献した小田原の人たちの一部の物語りを記した。
日本橋三越前面の本小田原町や、隣接する小田原河岸は、板橋の石屋善左衛門一統が最初の開発者で、その地は船で運んだ石の、その石揚げ場として始まったのである。またそれとは別に日本橋をへだてた南側には、小田原の青物町や萬町の人々が大擧して移住し、その地に今も同じ町名が遺されている。
本小田原町は後に築地に移転し、南小田原町がこれである。その南小田原町と築地との間に架けたのが「小田原橋」だが、南小田原町は昭和四一年に築地町に合併し、この橋も平成二五年に撤去されることになった。石屋善左衛門以来、多くの小田原人の夢と努力を消すに忍びなく、当時の市観光協会長鈴木智惠子氏と相談してこの髙欄一基を貰い受けた。いま市郷土文化館前庭に仮置きしてあるのがそれである。

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(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2017年04月21日号