小田原城さんぽ 2023年07月07日号

小田原城さんぽ [227] 江戸前期大手門跡

=大久保忠世・忠隣時代の三日月堀か=

小田原城やその城下絵図には、まだ北条氏時代のものが発見できない。久しく北条時代とされてきた『加藤図』も私は江戸初期の前期大久保氏時代の姿を写しながら、大久保氏失脚後寛永八年(一六三一)頃までの作図と考定した。
『加藤図』はそのように古図なので、この図のみが写している部分が数箇所あり、一部は該当する位置が発掘されてこの図の観察が証明された例もある。
まだ発掘例はないが、加藤図のみが写すのは大手門前衛の丸馬出しもそれで、この形の空堀を三日月堀とも云う。中世城郭ではひろく採用され、近世初頭では宇都宮城にも見られたが、ほぼ同時代に小田原にも存在した可能性は否定できない。
図にも明らかだが、小田原城大手門は当初広小路の軸線が直線的に三ノ丸堀を渡り、この三日月堀はそれに付属するものであった。家康が江戸へ入り、小田原城が大手門を江戸に向けた最初の姿であろうか。

(小田原の城と緑を考える会長 田代道彌)

-小田原城さんぽ, 2023年07月07日号